記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『狼は帰らず』 by 佐藤稔


その男は昔こう呼ばれていた「ホキ勝」。
「ホキ」とはイコール「ホキる」、
山言葉でダメになる・使い物にならなくなるという意味だ。
その軽蔑の意を多分に込められたあだ名は、
非情なるコンプレックスの鬼であった男を山へ山へと追い詰めていくのである。
その男とは、のちに『神々の山麓』の主人公のモデルともなった、
一匹狼・森田勝である。


幼い頃に母を亡くし、極貧にあえいだ10代。
満足な学を得られなかったという強烈な劣等感。
そのあまりにストレートな性格ゆえに、周囲との衝突を繰り返し、
満足に定職にも就かずに疎外される日々。
そんな閉塞感に苛まれ、一般的な社会活動から逸脱していく中で、
唯一現実を逃避できる術、それが山であった。
社会人の山岳会に属し、ようやく安住の地を手に入れたかと思われた矢先、
名づけられた屈辱的なあだ名。
世間が彼に非情な逆風を容赦なく吹きつければつけるほど、
彼の反逆心は燃えたぎり、そのマグマを糧として、
より破滅的な登山へとかりたてていく。


日本国内でも最高難度を誇る滝沢第3スラブの冬期登攀の成功は、
ただ資金不足によって海外遠征に加われなかったことに対して
屈辱を晴らすための自殺行為とも思える暴挙に近かった。
ヒマラヤK2ではファーストアタック隊に入れなかったことへの憤怒から、
登山隊からの離脱を引き起こす。
そうして舞台をヨーロッパアルプスへと転じた先で待ちうける、
宿敵・長谷川恒男との熾烈な登山競争。
全ての負のエネルギーをつぎ込み、
歩んできた蛇の道の先に待ち受けていたのは、
グランドジョラスの絶壁での転落死であった。


日常生活を犠牲にしてまで山へとのめり込むその姿は、
まるで狂気じみているような感覚があり、
自らのエゴを貫き通すあまり、回りの人間を見ずに一人突き進んでいく様は
ほとんど共感を得ないし、そのあまりの不器用さに哀れに感じなくもない。
少なくとも自分はこうありたいとは思わない。
しかし、人生これ一本、文字通り全てを捨てて打ち込む、
その覚悟と不屈の精神に対して、
男としてロマンを感じるというのまた正直なところである。
実際問題、ここまでやれる人間はそういない。
誰にも真似できない、捨て身の美学がここにはある。