記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『あしたはどっちだ』by 相原英雄監督

とあるものをどうしても体感したく、
忙殺の師走の間隙を縫って今年何度目かの東京行きを計画。
例によって、せっかく大枚はたいて上京するので、
やれることは全部やるコマンドをオンして、
あれやこれや詰め込み。
ちょうど、昼間は偶然、局所的(宮益坂周辺)に用事がつなげました。
まずは、オマケその1として、
朝イチでイメージフォーラムさんへ。
ここで、今のところここでしか上映されていない
寺山修司に関するドキュメンタリー映画を鑑賞する。
朝っぱらから一番ディープな題材です。


イメージフォーラム


1975年、4月19日土曜日。
社会を常に挑発し、既存の価値観や体制に真っ向から立ち向かった
鬼才・寺山修司が仕掛けた壮大な市街劇『ノック』が
突如、まさに路上で幕を開けた。
寺山は訴える、心の扉をノックせよ、意識を改革せよ。
塗り固められた既成概念を破れ。
引き金を引け、言葉は武器だ。
いますぐ台本を捨てて、町へ出よ、と。


新宿の駅前に突如現れたミイラ男が、大勢の観客を引き連れて
団地の扉をノックして回る。
全く無関係な住民に突然ナゾの手紙が送りつけられ、
その行動はキャメラによって監視される。
銭湯では突然劇が始まり、
何も知らない一般の客が恐れをなして逃げ出す。
別の場所では巨大な箱に閉じ込められた観客が、
港の空き地に放置される。
300台のオートバイが列をなして大通りを駆け抜け、
目隠しされた観客がバスジャックで連れ去られてゆく。


警察や行政への事前通告も一切ない形で、
全く無関係な一般市民を巻き込むという
極めてアナーキーな手法で、
杉並区一帯を舞台に、約30か所で30時間にもわたって
突発的、即興的に繰り広げられた寸劇は、
今でいうフラッシュモブの先駆けをあっさりと通り越し、
ある意味で意識における同時多発テロであった。


時代は学生運動がさかんな時代。
このゲリラ劇に刺激を受けた若者が暴徒と化すことを恐れた警察が動く。
至る所でパトカーが出動し、
予定していた劇を次々と中止に追い込む。
劇団員は相次いで逮捕され、
それに反発した観客が警察官と衝突、
寺山自身も警察へ出頭することになります。
しかし、それらの予期せぬ行動も、
もはや舞台という体制によって囲われた縛りから脱し、
繰り広げられる市街劇の一部となっていく。
舞台と客席を取っ払い、街という大きなひとつの装置の中に、
寸劇の合間にも観客が勝手に演技に参加したり、
想定外のアクションが次々と起こる。
そのようにして現実と虚構を一斉にばらまくことで、
既成概念をぶち壊し、意識を変革する。
その行く末に目指すのは意識の”社会転覆”。
時代が放つ野生の匂いを的確に感じ取り、
そこから劇薬を精製し続けてきたアナーキスト寺山が掛けた
強大なワナは、まんまと東京の街を飲み込み、
常識を焼き尽くしたのであった。


↓『あしたはどっちだ』


本作はその顛末について、
当時かかわった人物たちを訪ねるドキュメンタリー形式の映画だった。
あのどろどろとした寺山ワールドをイメージすると、
もっとスリリングでおぞましいサスペンス的なタッチを期待したが、
映画そのものは、その構成や演出、BGMの選曲に大いに違和感を感じた。
寺山を知らないビギナー向けなのか、やけに明るく親しみやすい感じだったので…
ただ、取り上げている中身があまりにも興味深いのでそれなりに見ごたえがあった。


芸術とはぶち壊すことであり、
何をぶち壊すのかといえば、腐りきった体制や強固な既成概念であり、
ぶち壊すためには、ジャックナイフのように鋭意で暴力的なエネルギーが
時としては必要である。
武器を持たずとも、こういう戦い方があるのだ。
退廃するこの現代日本に最も不足しているもの、
それが寺山修司だと確信した。