セイカ卒展
土曜日。
午前中の音楽教室ののち、
長女と一緒に岩倉にある京都精華大学へ
卒業発表展を見に行ってきました。
少し前からSNSで応援している
Saigetsuさんのイラストが気にいっていて、
それを目当てに。
おけいはんで出町柳まで。
そこでお昼を食べてから叡山電車に揺られて20分ほど。
やっぱり京都の寒さは一味違うなあと思ってたら、
結構吹雪いてきました。
↓京都精華大 卒展
まずはでっかいタイヤキがお出迎え。
なんじゃこら〜と娘も興味津々。
何でもいいので、彼女が面白がって、
あれこれ感じてくれたらええですなあ。
まずは、おめあてのものをということで、
デザイン学部のスペースである体育館へ。
人によって題材も、表現方法も、色合いも、
当然全然違っていて、完成されているというよりはむしろ
迷ったり、悩んだり、勢いでぶっつけという、
粗削りで未完成なエネルギー、
青春の青っぽさが会場にプンプンと充満していて、
それだけでもう、おっちゃんにはいい刺激。
限られた時間では1つ1つを丁寧に見ることはできないので、
自分のアンテナに引っかかったものを中心に見て回ります。
娘も、ああだ、こうだ、ニヤニヤ。
↓かにぱん広告代理店
そして体育館の一番奥を陣取って
Saigetsuさんの作品がありました。
彼女の絵は、どこかで見た日常の風景でありながら、
その日常からふわりと抜けだして、
現実のすぐ裏側にくっついてるもう一つの世界を覗き見るような
浮遊感があり、それが実に心地よい。
一番の特徴は、独特のファジーな色合いで、
それはファンタジーのようでもあるが、
決してフィクションではなくて、
遠い青春の記憶を呼び覚ます時に、
頭の中で妙にノスタルジックな味付けをした時のような、
そういう甘酸っぱさと言うのか、くすぐったさと言ったらいいのか。
ちょっと熱に当てられて、ポオっとした感じ。
そういう明確にこれと指し示られないような、
感情・感覚の色を出せるのって
やはりセンスなんだろうなと思います。
現実をただ忠実に模倣するのではなく、
そこにストーリーやエモーションを味付けして、現実を越えて行く。
それこそが本当のクリエイティブ だと思うのですが、
彼女の絵からは、単にスゴイとかキレイとかではなく、
描かれているものの先まで思いを飛ばせるような
イマジネーションを感じます。
例えば、1枚目の絵などは、
路地にチョークで描きなぐった想像の風船が、
子どもの世界ではまさにリアルに飛び立とうとしている様で、
ただ単に情景を描くのではなくて、
そこにはストーリーが生まれている。
2枚目の絵は、ただ風景を切り取った絵で、
そこに登場人物は描かれていないのだけど(猫はいるけど)、
その描かれていない人物だったり、
絵の外の世界を想像させるような奥行きがあり、
”不在”がとても効いている。
展示の脇には、スケッチノートが置いてあって、
恐らく実際の場所でスケッチをしたモノクロの絵が並んでいたのだが
そこから完成品までのイマジネーションの飛躍を垣間見れたので
とても興味深く拝見しました。
やっぱり純粋にこの絵が好きなので、
頑張ってほしいですね。
娘が一番食いついたのが、建築コースの模型。
去年の夏休みに、我々も町の模型を造りましたが
それをまたやりたいそうで、
より精巧に作られた模型たちを見ながら、
あれはどうやってるんやろうとか、興味津々でした。
製品プロダクトもジャンルとしてはなかなか興味深い。
デザインをより生活の身近なところで展開する、
生きた使えるデザインという分野はやりがいあるだろうなあ。
デザイン学部をあとにし、
芸術学部の日本画、洋画、テキスタイルなどを見てまわる。
よりストイックに芸術に向かう大学生活は、
もうそれだけで羨ましい。
その間にはものすごい葛藤や創造の苦しみがあるとは思うけど
それを全力でぶつけられる環境はやっぱり羨ましい。
↓日本画コース
このセクションで特に気になったのは版画コース。
わが家も去年あたりから
ご近所のレトロ印刷でいろいろな遊びしていますが、
版画ってすごく幅が広くて手軽で可能性を感じるなあ。
この日はおしりの時間が決まっていたので、
見学はこれまで。
グッズが売っているマーケットで
気になった作品のカードやらを購入しました。
すると、ちょうどSaigetsuさんが店番で立ってられたので
少しだけお話しできました。
応援してますよ〜。
色々、自由で軽やかな空気の中で、
若者のエキスを浴びていい刺激になりました。
ただ1つ気になったのは、どの分野でも、
いわゆる2次元キャラの世界がどんどん浸食しているという風潮。
村上隆や奈良さんの登場以降くらいから、
現代アートの1つのメインストリームとして確立しているし、
昨今、アニメーションや”kawaii”文化がもてはやされて、
アートという固い垣根がどんどん崩れていっているというのはわかるんだけど。
果たしてそれは純粋に自分が表現したいアートと言えるのか、
ただのワレの趣味の丸出しなのか、
そこの線引きを作者自身がきちんと設定できていないように感じるものが
とても目立ったような気がします。
確かにキャンバスにはキャラが描かれているけれど、
そこに”人”が描かれているという深みが感じられなかったり、
どこかカルチャー文化の中で消費しつくされたような
タッチや色使い、テーマのものが少なくなかった。
アートとは、技術とか美しさとかそういう表象のものではなく、
ほとんどすべて「意味」でできていると思っているので、
あくまでアートという視点で考えるならば、
既存の価値観や、確立された文化をぶち破るエネルギー、
あるいはそれとは真逆で
あえて道を極限まで極めるというような心意気が欲しいものですが、
自分の生活スタイルや時代の波に丸まま飲み込まれて、
その小さい現実の中からしかテーマや表現方法を見つけらていない、
というのはちょっといただけないだろうと。
それは別に2次元や、キャラもの自体を否定しているのではなくて、
もし現代アートの本流がそういう流れなのだとしたら、
あえてそれとは別の流れを作り出す、
あるいはその流れに逆らって突き進むというような発想にまで
思いが届ければ、またアートが前へと進むのになあと感じました。