記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『火垂るの墓』 高畑勲監督

火垂(ほた)るの墓 [DVD]

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高畑勲監督の追悼で先日放映された『火垂るの墓』を観る。
小学生の頃に初めて映画館で見て(トトロと二本立て!)以来、
何度か観ているが実はちょっと苦手な作品である。
というのはどうにも感情が抑えられず、
相当なエネルギーを消耗してしまうから。
子供の頃は、自分にも妹がいるので、
どうしても清太に自分を置き換えて観てしまって、
あれこれと考えを張り巡らせたし、
阪神大震災を経験して以降は、
作中の焼け野原と地震の光景がオーバーラップしてしまう。
そうして今では自分に小さな娘たちがいて、
彼女たちのことを想いながら見てしまったら、もうどうにも止まらない。
先日も、ずっとずっとこらえていたのだけど、
とうとう、どうしようもなく嗚咽していたら、
長女がそっと手を握ってくれて、涙腺が決壊してしまった。


そういう風に、どう頑張っても感情が圧倒的に押し寄せてしまって、
作品について、あるいは作中に描かれている事柄について
冷静な分析だったり、解釈が難しい作品だったのだが、
先日はできるだけ目を逸らさず、正面から受け止めることに努めた。


原作者の野坂さんも、高畑監督も、
戦争という忌むべきものに対しては、もちろん大反対だし、
それがもたらす様々な災い、
つまり親しい者たちとの死別や、
飢え、貧困、暴力、排除、無秩序、絶望といったものへの
嫌悪は言わずもがななのだが、
彼らが訴えたかったことのなかには、
戦争がもたらすものへのNOだけではなく、
戦争をもたらすものへのNOも含まれているのではないだろうか。
つまり、排他的な思考、
絶対的な権力が暴力的に国を支配するような状況、
あるいはそれらを着実に根付かせる思想的教育の恐怖について。
その重要なメッセージが、
スクリーンに映し出される悲しい物語に対する
激しい感情の高ぶりに隠れて
自分自身、今まであまり認識できていなかったように思う。
ただ単純に戦争はいけないということ以上に、
その異常な社会が異常でないように感じられるような
考え方や社会の在り様こそが、最も忌むべきものであるということだ。


そのメッセージを紐解くうえで、
自分が一番、この作品で着目した点は、
清太が叔母の家を出て、自活をすることを決めたことだ。
もちろん、叔母の言動には耐えがたい屈辱や嫌悪を感じざるを得ないし、
自分たちの居場所が極めて窮屈に感じるのは間違いない。
しかし、もし清太が本当にあの時代を生き延びるのだという
ゆるぎない意思があり、
なにより節子が無事に生きる、成長することを第1に考えるとしたら、
己がプライドを捨て、どれだけ我慢を強いられ、
地べた這いつくばってでも、
あの家に残ることを選択しただろうし、
あるいは農家のおじさんが諭すように、急に瀕した状態で、降参して
屈辱的であっても、家に戻るということができたはずだ。
もし自分が同じ状況ならというのを昔から何度も何度も考えたが、
やっぱりそれがあの状況では最善の選択だったろうというところに落ち着く。
しかし清太はそれをしなかったし、考えもしていない。
あれだけ大切な妹の生存を脅かしてまで、
何が彼をそこまで頑なにしてしまったのだろうか。
そこがずっと引っかかっていた。


もちろん精神的に複雑な青年期にある少年の純粋な強がりやエゴ、
大人への反抗心が働いたということもあるだろうが、
清太にその選択をさせなかったのは、
彼が軍エリートの一家に生まれた長男であるという点に
一番の要因があると思われる。
空襲により、母親が死に、孤児となって運命が一変してしまったが、
それまではむしろ裕福で、何不自由のない生活を送っていた。
連合艦隊の幹部としての父親に絶大な信頼と誇りを抱き、
大日本帝国が勝利することを信じて疑わない姿勢が、
作中で随所に描かれている。
もし彼らが、普通の一般的な水準の家に生まれていたら、
戦時における日常においては、
すでにあれくらいの理不尽な出来事は
当たり前のこととして受け入れられたのであろうが、
彼らの育ちが、生き恥をさらして無様に生きるなら、
尊厳ある死を選ぶというような、
極端で誤った武士道めいたものへと導いてしまったのではないだろうか。
それはまさしく、当時の日本が誤った正義に邁進してしまったことと重なる。


一般的に、彼らの行動については
理不尽な大人の世界に反旗を翻したという評があるが、
自分から見ると、むしろ理不尽な大人の世界の理屈を信じて疑わずに
子どもながらに突き詰めてしまったからこその悲劇のように映った。
つまり、戦争という異常な時代の中で、その状況を異常とせず、
自らの生活に落とし込んだうえで、現実の戦争と同じ理屈で、
彼らなりの小さな戦争をしかけたのではないだろうか。
それも初めから負け戦とわかっていてである。
人によっては、あの選択をもってして、
自業自得だと切り捨てるような安易な結論を下す人もいるかもしれないが、
まだ自立もできないような少年少女にすらそういう思想が植え付けられ、
ああいう選択を強いられたという点や、
まだ未熟な者たちを正しい道へと導くことができない社会に
翻弄されたという点において、
やはり彼らもまた悲しい犠牲者だと言わざるを得ない。


この作品でせめてもの救いは、
彼らが死後、強い絆でもって
再び魂がひかれあって再会を果たしているという事が
描かれていることである。
それがたとえ、生きる者の願望が、
いいように想像してしまった産物であったとしても、
それがもしなかったら、もう自分は本当に心が張り裂けて
二度とこの映画を観れないかもしれない。
だからあのように描くことは、きっと、
高畑さんの心からの優しさなのだろう。


実際にあのような悲劇とほぼ同じようなことが、
たかだか70年前のこの日本で繰り広げられたこと、
そして依然として世界から戦争や紛争がなくならないこと、
また、その恐ろしい影がこの現代日本においても、
ひたひたと出番を伺うような不穏な空気が
少しずつ濃くなっていることを考えれば、
大人こそ、この映画をマジメに直視して観るべきだろう。
そして高畑さんが残したメッセージをつないでゆき、
二度と同じ過ちを犯さないことが、
高畑さんへの、そして清太や節子への
一番の追悼になるのだと信じてやまない。