記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

NHK京都発地域ドラマ 『ワンダーウォール』


NHK BSで放映された
京都発地域ドラマ『ワンダーウォール』を遅まきながら観た。
その街のこども』や『カーネーション』、
ジョゼと虎と魚たち』などの脚本を手掛けてきた
大好きな脚本家・渡辺あやの4年ぶりのオリジナルドラマで、
まさに現在進行形で問題が生じている
京都大学の学生寄宿舎・吉田寮の寮生押し出し問題を題材としていて、
静かな注目を浴びている。


築105年の吉田寮現棟は現存する最古の学生寮で、
原則学生によって自治されているのだが、
特異な人間たちが集い語らう文化的サロンとして機能してきた
長い歴史が醸し出す”味な”空間として、OB・OGはもちろん
様々な文化人から愛され着目されてきた場所である。
しかし、長年、老朽化への危惧や建て替えを希望する大学側と、
現存の建物とそこに根付く文化を保全したい学生側との対立があった。
2017年12月19日、大学側が築100年を超える建物の老朽化を理由に、
寮生たちに向けて2018年9月末までに退去するようにとの通告を
一方的に行ったことで、両者の関係は完全に決裂してしまっている、
というのおおよその事の成り行きだ。
(正確かつ詳細に知りたい方は自分で調べてみてください)


ドラマは、自分たちの愛する場所、あるいはその場所を通じて介在する人、
そして培われてきた文化や歴史を守ろうとする若者の視点と、
経済至上主義や、官僚的・権威的な姿勢を崩さずに
粛々と解体へ突き進む(そういう立場として描かれる)大人たちとの対立を
淡々と等身大の目線から描いた秀作であった。


しかしこのドラマの投げかける問題は単に1大学の1寮の存続の話ではない。
ドラマのカギ役として登場する成海璃子のセリフにあるように、
経済至上主義あるいはグローバリズムやユニバーサル化といった
強大な時代の流れにより駆逐されつつある、
例えば歴史や信念、人情や侘び寂び、故郷といった
"人間味"の喪失の最前線の1現場の記録であり、
幸福とは何か、豊かさとは何かという核心的かつ痛烈な問いかけなのだ。
つまり便利さや効率性、安全性、生産性といったものをシステマチックに推し進めるような
現代社会のあり方が、果たして本当に正しい道なのか?
無駄とか余白とか不条理とか、不便とか、余計なところにこそ
人間的な豊かさや多様性の一端が芽生えるのではないか?


アマゾンといった世界規模の流通機構、
あるいはイオンなどの郊外型スーパーの画一的機械的な流通網によって
無残にも敗れ去った駅前商店街と地域コミュニティ、
あるいは問題未解決のまま強行された築地市場移転や代々木競技場の建て替え、
タワーマンションに飲み込まれる風街のともしび等々、
経済至上主義とグローバル化による場の喪失は
ドラマの中だけの小さな出来事ではなく、
日本全国、世界共通で生じている。


今やSNS等で24h、世界中の誰とも簡単に繋がることが可能で、
空間的なハードルを克服できるようになった現代社会だが、
人の集うリアルな場の可能性、魅力は増す一方だ。
画一化された平均的で味気ない場所がシステマチックに拡大する一方で、
アウラ”(場所の一過性)の復権が、様々なスポットで声を上げている。
しかし、そういう生きた場というのは造ろうと思って造ることができるものではない。
なぜなら、それは造るというよりもむしろ育まれる、
さらにいえば醸し出されるものだからだ。
個人的にはハコがあるというのは決定的な強みだと実感している。
それだけ人を集めることのできる可能性を秘めているからだ。
人の介在する場を創り出すというのは、
あらゆる芸術行為の最終地点になりうる。
つまり感覚的な極致だ。
逆に、人の住まなくなった家はすぐに痛み、朽ちてゆくが、
血の通わなくなった場もまた同じだ。
生きた場を失うということは文字通り
1つの文化の死に直面することと同義だなのである。


例えば、ビールを飲むとする。
製品的成分的には全く同じはずであるから、
全国どこで飲んでも、きっと味は同じはずだ。
しかし実際は違う。
それを味気ない会議室の片隅や小汚い便所の個室で飲むのと、
味な角打ちのカウンターや盛り上がる野球場で飲むのとでは
美味しさは全く違ってくるだろう。
つまり数値化可視化しづらいが、
人間は場所に対して何らかの情緒や作用を間違いなく生じているわけで、
場の問題で何処でもいいという事は決してないのである。


ゲニウスロキ(地霊)は明確に存在する。
例えば大きな災害で地域が壊滅的になり、疎開を余儀なくされても、
本当の意味で故郷を捨てることなどできない。
原発の事故で立ち入りが制限されていても、
いつか必ずそこへ帰るという心情。
あるいは戦火でどれだけ苦しみぬいても生まれ育った町を放棄することのない
シリアやパレスチナの人たち。
沖縄の人たちが自分たちの心のふるさとである美ら海を守る信念。
大国の領土的野心によって生み出される数々の不幸や衝突への不安。
あるいは慣れ親しんだ馴染みの店が閉店してしまうときのあの深い喪失感。
故郷を離れる時に吹く心のすきま風。
大なり小なりはあれど、全ては繋がっている。
場所への愛着・安心感・執念・野望など、空間に対する心情というものは、
時代や国を超えた全人類に共通する人としてのある種根源的なものであり、
つまり人は良くも悪くも場に縛られて生きていると言える。
だからこそ場の喪失は不幸な出来事なのだ。


それにしても渡辺あやさん、やっぱりすごい。
現在進行形の当事者の質感というか温度感を汲み取って、
同じ視点を届けてくれる.。
安易な結論や主張を提示するのではなく、
観る者に自ら考えることを呼びかけ、
"議論" という社会的な場に我々を招き入れてくれる。
残すにせよ壊すにせよ、議論は必要だ。
なぜならそれが人間が培ってきた文化の土台そのものだからだ。


個人的には吉田寮には深い思い入れはない。
しかし、自分にも間違いなく自分にとっての吉田寮があった。
大学の4年年暮らした映画同好会の部室がまさにあんな空間だった。
全壁天井が漆黒に塗られ(映写機を回して上映するため)、
ビールケースを敷き詰めた上に畳敷き、
マニアなビデオや漫画・ゲームが散乱し、
一癖も二癖もある変態さんが集っては、
アホな映画を授業そっちのけで作ったり、
鍋をつついたり、熱い議論を戦わせたり、
バカな青春をやってた。
今思えば若気の至り、くだらない青春の1ページだったかもしれないが、
あの時思う存分に吸い込んだ自由の空気は
今もまだ自分の体内で風となって吹いている。
しかしあの愛おしい空間は今はもうない。
まさに同じような喪失を味わった身として、
類まれなる吉田寮が解体の危機にさらされていることに心が痛む。