記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『この星の光の地図を写す』刊行記念 石川直樹トークライブ at スタンダードブックストア心斎橋

昨夜は、大好きな写真家の石川直樹さんのトークショーで、

閉店間際のスタンダードブックストア心斎橋へ。

 

一応、肩書としては(消去法で)写真家と名乗られていますが、

どの肩書にも縛られない活動をされている石川さんは、

17歳の時にインド・チベットへ単身渡って以降、

辺境の地をめぐる壮大な旅人となった。

9か月をかけて北極点から南極点まで人力で踏破する「Pole to Pole」。

世界最年少(当時)での七大陸最高峰登頂(7サミッツ)。

熱気球による太平洋横断チャレンジ。

全長900kmものユーコン川をカヌーで漕破、

世界中の洞窟壁画を収集する旅などなど、

水平の旅、垂直の旅、そして時空を超えた旅を

20年に渡って続けてこられ、

その集大成がこの『この星の光の地図を写す』である。

そこには日常をはるかに飛び越えた絶景や

世界の片隅でひっそりと失われゆく風景、

厳しい自然環境の中で暮らす人たちの営みや息遣いが収められている。

 

あらゆる科学技術が発達した現代においてもまだ、

太古の昔から脈々と受け継がれてきた文化や生活様式が、

この地球上には今もって存在し続けている。

それは決して懐古主義的な感情論からではなく、

まさに科学技術では太刀打ちできないような環境下において、

最も最善の策として選び抜かれてきた結果としてである。

そういう辺境の暮らしを同時代に生きる同じ人間としてのまなざしで

感傷に浸ることなく冷静に洞察し、

それを我々に伝えてくれる伝道師でもあるのだ。

 

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トークショーでは、スライドショーや動画を見ながら、

その時の状況や思いなどを色々と語っていただきました。

写真技術のあれこれとか、

競技的な側面での登山の話(いわゆる筋肉的な話)というのはなく、

本好きを公言するだけあって、

文学的素養や民俗学的探究心といった文化的土壌を

しっかりと耕してこられた人が備えている奥深さを感じられるお話しでした。

そこから垣間見えるのは、

石川さんを突き動かしている原動力が一貫して、

知らないものを知りたい、

知らない世界をのぞいてみたいという

純粋な知的好奇心なのだろう、ということ。

現代社会において、あらゆるツールを使えば、

瞬時に様々な情報を得ることは可能だ。

しかし、それはあくまで知識として

仕入れることができるということ以上のものではなく、

それは本当に知るということ、実感として身に着けることとは違う。

それはまさに画像と写真が似て非なるものであるという事と同じだ。

やはり実際の場へ行き、わが身でもって体感することが

最善で最短の”知る”という行為なのだと彼自身が知っている。

だからこそ、彼が射程に捉えるフィールドはどこまでも広く、 

ストイックに頂を極めていくような登山家でもなければ、

アドベンチャーを舞台としたアスリートでもなく、

絶景だけを取り貯めていくような写真家の枠にも収まらないのだろう。

 

もっとも興味深かったのは、

これだけ過酷な環境下での撮影を前提としていながら、

使用している機材はなんと、

ジャバラのついた80mmレンズのフィルムカメラだということ。

凍てつく寒さや、強烈な水しぶき、砂嵐などで、

壊れてしまうことはしょっちゅうだそうです。

そしてレンズの交換ができないので、

遠いものは遠く、近いものは近くにしか撮ることができない。

もっと寄った写真が欲しければ、

自分自身が寄って行かないといけない(自分ズームとおっしゃってました)。

しかも、例えば極寒の中三重グローブをしたままとか、

大波に揺さぶられる小さなカヌーの上からの撮影など

ファインダーを覗いて正確にシャッターを切れなかったり、

露出やピントをアジャストできない場面も多々ある。

なので、あとで現像をしてみると、

ブレていたり、白トビしていたり、ピンが甘かったり、

シャッターを押す自分の指が余計に映り込んでいたりということがある。

しかしそれによって、むしろ写真に生々しい迫力が備え付けられている。

この辺りは彼が写真を師事した

写真家・森山大道の影響が大きいのかもしれないが、

ただ単に美しい絶景を絵画のように完璧な構図で切り取るのではなく、

被写体と対峙する自分自身の行為やその時の感情、

あるいはその時の周りの状況すらもを画の中に映り込ませることで、

彼が他の誰のものでもない彼自身の作風を築き上げている。

 

だから彼の写真からは、彼自身の激しい息遣いだったり、

吹きすさぶブリザードの金切り音が聞こえるし、

重い荷物を運ぶヤク達の野性味あふれる体臭が匂いたち、

シェルパイヌイットのしゃがれた声が聞こえてくる。

それは決して綺麗事ばかりではない、

嘘偽りのないその瞬間そのもの。

 

そして、普通から見れば機材的なハンデがあるにも関わらず、

彼は写真を撮り損ねて後悔したことがほとんどないという。

なぜなら、撮れないという事の悔しさを本当によくわかっているから、

撮りたいもの、撮りたいシチュエーションがやってきたら、

何が何でもとにかく撮る。

それを繰り返すことによって、撮ることの経験が生まれ、

撮れないということがなくなるのだとか。

撮るという行為自体は、極めて主体的な行為なのだが、

結局、技術がどうだ、センスがなんだといっても、

そんなことは大した問題ではなく、

まして彼がフィールドとしている辺境の地などは、

どこにカメラを向けても自然そのものが

もはやどうしようもなく圧倒的なわけで、

どのみちシャッターを押すということくらいしかできない。

ならばそこにすべてを注ぐ。

もちろん、そうは言っても彼自身が技術やロジックを

きちんと身につ行けているということは大前提としても、

彼は常に謙虚に世界と会話を試みているようでした。

 

さらに面白かったのは、

常にカメラが壊れるリスクがあるため、そのバックアップとして

一時期は写ルンですを必ず携帯していたそうで、

実際に持参したカメラが全て壊れて、

それで撮影を続けたということもあったそう。

どんな状況下で、何やっても絶対壊れないから、

最強ですと太鼓判を押しておられました。

 

そして石川さんの魅力は、写真だけでなく、

そこに添えられる言葉たち。

彼は毎日、日記をしたためていて、

それもトピックス的な事柄よりもむしろ、

翌日になればすっかり忘れてしまうような

細かな部分を意識的に書き留め、

それをあとで紐解きながら考えを文章にまとめていくそう。

ディテールにこそ、心動かすものが宿るというのは

とても共感できます。

 

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トークののちは質問コーナーで、

自分も最後の質問者として 質問させていただきました。

目を見張るヒマラヤの絶景など、

美しい景色の写真はもちろん素晴らしいのだけど、

やはり石川さんの写真で心打たれるのは、

そこの住まう人たちの営みだったり、息遣いが伝わる写真たちで、

シェルパ族だったりポリネシアンだったりイヌイットだったり、

彼らにカメラを向けることができるだけの、

あるいは、厳しい旅の同行者としての信頼関係を築くうえで、

どうやって懐に飛び込んでいくのですか?と質問しました。 

石川さんの答えは、いたって普通にいること、

普通の人間として普通に接すること、というものでした。

同じ人間同士なのだから、変に構えて距離を置くのも不自然だし、

逆にずかずかと遠慮も礼儀もなく近づいていくというのも変。

まして自分はあくまで異邦人なのだから、

見ず知らずの人がいきなりカメラを構えたりしたら

不審思われるのは当然だし、

人が嫌だな不快だなと思う事はしないし、

場もわきまえるし、

必要な手続き(村長に許可を得るなど)はきちんとやるし、

そのことで何か特別に大袈裟にパフォーマンスをやることもない、

それはチベットでも日本でもどこでも同じことですよ、

と謙虚な姿勢で実に地に足の着いた返答でした。

それはまさに彼がこの壮大な旅を

ライフワークとして捉えているからで、

決してセンセーショナルなものに流されず、

自分の視点・観点をブレさせない姿勢の一端なのだと思いました。

 

終了後は、サイン会。

自分も色々石川さんの写真集や著書は持っているのだけど、

その中でも一番好きな『Lhotse』にぜひとも、

ということでサインをいただきました。

 

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石川さんはこの6月から、

2015年に登頂を断念したK2を再訪するそうで、

また新たに地球の描き出す壮大なドラマを我々に見せてくれそうです。

 

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