記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

無題

Gotoキャンペーンのおかげで、

どこもかしこも人が増えている。

 

安いから行くというのは自分の中では動機にならない。

行きたいから行く、見たいから見る。

その結果、安く済んだなら、それはよかったねというだけで。

お得だからどうとか、安いうちに利用しなきゃ損するとか、

そういう損得勘定が思考の出発点にはならないのだ。

というより損したという感覚がわからない。

ないならないなりに、行けないなら行けないなりに、

楽しめばよいだけ。

 

そもそもGoto施策にしたって、ふるさと納税にしたって、

そもそもは収入や税収が減ってしまって困っている

事業主や自治体を救済するのが本来のものであるはずが、

実際には、消費者は、そういった救済意識などほとんど抱かず、

自分自身がお得かどうか、

どうしたらちょっとでもうま味を得られるかどうか、

ほとんどそればかりに必死だ。

なのに、結果的に困っている人も潤うんだからいいじゃないかと、

自らの卑しさを恥じるどころか、公然とひけらかすことのできる

格好の免罪符としてしか機能していないというのが実情だろう。

本当に、困っている人のことを思えば、

その対象に直接救済すればいいのだが、

特定の人や団体だけが恩恵を受けることに対して、

自分はその対象ではない、つまり自分は損をしていると、

被害妄想的に感じるような意識がそれを妨げる。

こういう消費者文化が心底嫌いだ。

だから、そういうことには加担しない。

 

こういう思考は、単純に消費行動に直結する行動範囲に限らず、

権力者におもねる体質、

生活保護者へのバッシング、

あるいはどこそこの組織が

どれだけの予算を国から支給されているから、

けしからんとか、無駄だとか、

この世の中をどんどん生きづらく窮屈にさせてしまっている

色んな事象の根底に脈々と流れている。

 

そういう大衆の思考の安易さを実にうまく捉えて、

ちょっとしたお得感を与えることで、まんまと手玉に取る。

大衆の側も、それで自分が得をするならば、

ちょっとぐらいのこと、

特に自分の生活と直結しない分野の事柄や、

あまりに概念的過ぎて

想像力に及ばないような事象(憲法・法律の類)などについて、

多少の問題や疑惑があっても、大目に見る、

という共犯関係が成立してしまっている。

 

そうしてどんどん程度のハードルを下げて、

目先のお得ばかりを追い求め、

ひたすら損から逃避しつづけているうちに、

すっかり子供じみや社会になってしまった。

もはや豊かさとは縁遠い。