記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

「ガラスの街」 P・オースター

それは1本の間違い電話から始まる。
ある晩、主人公の家にかかってきた1本の電話。
相手はP・オースターなる私立探偵に急を要する仕事を依頼している。
その間違い電話はその1回では終わらず、
3度目の電話で、主人公は思わずP・オースターと名乗り、仕事を引き受ける。
電話の相手の身をある老人の狂気から護ってほしいという依頼を受け、
自らの存在をひた隠しながら、”オースター”たる主人公は老人を尾行する・・・


これはいわゆるミステリー小説のような体裁をしているが、
真のミステリーものではない。
そもそも人が死んだり物が盗まれたりといった事件は起こらないし、
犯人探しをするような話ではない。
社会的存在の希薄さについての物語だ。


はじめは自らの意思で、他人にすり替わることで自らの存在を社会から消し去り、
誰でもない誰かになってNYを浮遊することに満足感を得ていた主人公。
しかしいつの間にか自らの意思ではない、
別の作用よって「存在」が消されてゆくとしたら・・・
主人公が自らの存在が希薄であることの危うさについて
恐怖を抱くほどに、読者もまた恐怖を追体験するのである。


この希薄さを明確に表現している単語が文中に出てくる。
「it is raining」とか「It is night」といった風に用いられるit。
その意味について主人公は自問する。
ある存在を特定するtheでもthisでもない、ただ漠然とした存在としてのit。


物語の後半、ホンモノのP・オースターとのやり取りの中で登場する
ドンキホーテ」の解説が、この物語の核心を端的に表現している。
誰がドンキホーテで誰がサンチョ・パンサの役回りを演じている(演じさせられていた)のか、
結局の所は判明することはないが、それはあまり重要ではない。
むしろその存在がつかみきれないことの不安や不気味さこそが重要な魅力である。


おもしろいのは主人公が成りすましている人間の名前がP・オースター!
そうすることによって2重にも3重にも存在がループして、
どの人物の目線で語っているのかわからなくなり、
人称の迷宮へ吸い込まれていく感覚に陥る。
印象的な場面は、老人がNYを浮遊した軌跡から
THE TOWER OF BABELの文字が浮かび上がる箇所。
意味のない事象にさえ、意味を見つけ出さずにはいれない人間の性。
あやふやな概念・総体を指し示すだけのitへの畏怖。
さーっと背筋が凍るような感覚に陥る。


この話を単なる物語として片付けるのではなく、
現代社会が直面している問題の
1つの根源を提示しているものとしてみることは飛躍しすぎだろうか。
つまり社会的存在の希薄さについて。
例えば、ネット上に自ら創りあげた仮想人格に陶酔し、
自ら進んで社会との関係を断ち切ろうとする、ニートや引きこもりの行く末について。
あるいは、”自由”を確保するために、自らの意思で選択して、
派遣や契約といった非正規雇用に走ってしまった人たちについて。
彼ら(我々)は、匿名性が維持された透明な世界に浮遊したまま、
現実世界に戻れなくなった現代の亡霊である。
彼ら(我々)は、heやsheで表される意思を持った個別の人間から、
いつでも取替え可能な労働資源itへと、ある時点からすり替えられてしまった。
そしてある時、その社会的存在の希薄さの恐怖に直面した時、
ある者は主人公のようにあてもなく浮浪し、ある者は自殺し、
ある者は狂気のおもむくままに凶悪犯罪に走るのだろうか。
巨大な罠ともいえるすり替え装置がこの社会の中で確実に作動している。


それにしてもあっという間に読んでしまった。
今まで海外文学は読まなかったというより、避けていた。
というのは翻訳家の良し悪しや相性が決定的な要因になるからだ。
でも本書は柴田元幸さんの素晴らしい仕事ぶりが光っていた。
ただし、物語の内容に必然と意味と筋書きを求める
主人公と同じ志向の読者にはまるっきり向かないが。
それにこの本はNYを舞台にしているためかJAZZととても相性がいい。
深夜の読書タイムにはぴったりの1冊だった。


ガラスの街

ガラスの街