記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

善の形

善の形というのは一様ではない。
自分の生活を見直して、何かをやめて我慢するということも1つの形だし、
変わらず踏ん張って続けるというのも1つの形。
色々な思いの表し方があっていいと思うし、こうすべきだとかこうでないといけないものもない。
(大体誰がそれが正しい正しくないと決められるのだ?)
被災地の人たちへの思いに大も小もない。
誰にもわかりやすい見える善もあれば、一目にはわからないささやかな形もあるだろう。
(別にアピール合戦じゃないし、アピールだとしたらそれこそ偽善)
大金持ちなら、他人から売名行為だ何だと非難されようと大金を寄付したらいいし、
クリスチャンなら、神に祈って腹が満たされるかと言われようと静かに祈りを捧げればいい。
ミュージシャンなら自分の音楽で勇気付けようと思うのは自然なことだし、
お金も術も持たない子どもたちが千羽鶴を折ったり絵を描くことは、
彼らの最大限の思いの表し方だろう。
みな堂々と思うようにやったらいいと思う。


それが、他人の思いや行為に対して、それは偽善だなどと、
どのツラがエラそうに言うのだというどうしようもないバカがどうも多いらしい。
そういう最低限の道徳すらない人間は心底自分を恥じるべきだろう。
そういう善を無駄だと思う人間に対しては、何をやっても無駄でしかないのだろうが、
そういう人はきっと真の意味で救われない奴に違いない。
多分バースデープレゼントに現金を要求してくるようないやなガキに違いない。


自分はロードで走っているとき、対向からやってくるローディーさんに
「コンニチワ」と声をかけられると少し元気が湧く。
上りのゴール手前で、ガンバレの声援を効くと、完全に売り切れ状態だった脚が
最後の最後の力を出してスパートすることだってできる。
こないだのブルベ、左足を故障しながらも完走できたのがまさにそれだ。
たった4文字、「が」と「ん」と「ば」と「れ」と発せられるだけで
人間ものすごいエネルギーが沸いてくることだってあるのだ。
あるいは奥さんや子どもから「ありがとう」「がんばってね」の一言で
明日への活力が断然湧くなんてことは誰もが経験していること。
1つ1つは小さなささいなメッセージかもしれないが、
その1つ1つでさえパワーを持っているのだから
多くの励ましの声やメッセージが無駄だというはずがない。
それが無駄というなら、この世に歌は存在し得ないし、スポーツの感動は嘘ということになる。
そんなことがどうしたら否定できるのか?
何もできなくても、ただ繋がっているというということがわかるだけでも
人は相当に安心感を得ることができる。日本中が世界中が見守っている、
そういうメッセージを送ることは決して無駄なことではない。
お金や物資というのは一目でわかりやすいかもしれないが、
人間はそういう物理的なものだけでできている単純なものではない。
モノやカネが送れないなら、せめてそういう気持ちだけでも送ろうという気持ちは決して偽善ではない。


偽善とはそもそもその意思がないのにする善という意味で、
はじめから騙すつもり、馬鹿にするような場合はそうかもしれないが
気持ちがあるならそれは善意に違いない。
みなそれぞれ役に立ちたい気持ち、心配する気持ち、がんばれという気持ちがあって
その表し方が違うだけだ。
この場合、本当に役立つかどうかということは二の次だ。
役に立つから善意、役に立たないものは偽善というモノの見方は馬鹿のすることだ。
損得勘定だけでしか物事を図れない人間は心底かわいそうな人間だと思う。


とにかく今は無駄なこと・余計なことはせずに社会に負担をかけない、
粛々と日常社会を動かしてゆく、
寄付や募金に可能な限り応じる、
家族や大事な仲間たちのことをいつもよりも強く想う、
それが今は自分にとって被災地への最大の励ましになると信じて実行する。