記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『海炭市叙景』 by 佐藤 泰志

この者は悲しみが何かを知っている。
絶望とはどういうことなのかを。それらは突然訪れるのではない。
平凡な日常にいつのまにか染み着いてしまって、
決して消し去ることのできない影なのだ。
コトバの1つ1つがぬぐいきれない悲しみを纏い、
真冬の海岸に力なく打ち寄せられる白いあぶくのごとく、
はかなさといてつく寒さだけを残して、物語はだた無抵抗に砕け散る。
しかしその散り際の瞬間に、ほのかに優しい光の粒がスパークするのだ。
全てを完結させる前に自死を選択した作者。
彼の脆く純粋すぎるまなざしは、
この物語の先にいったい何を見つめていたのだろうか…


海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)


作者の生まれ故郷である函館を連想させる架空の都市「海炭市」。
首都の繁栄から遥か遠い、忘れ去られた北の地方都市で、
細々としがみつくように生きる市井の人々の18篇の交差する物語。
築かれてきた歴史が開発によって失われてゆく街の変わりゆく様が丁寧に描かれ、
その変遷とともに、様々な悩みや不安を抱えた人たちの心も静かに波打つ。
その刹那に放たれた一瞬の光も、結局は変わることのない日常にかき消されてゆく。
彼らの日常は、特に彼/彼女の職業についての事細かな描写によって、
克明に記録され、そこに奇跡的な希望が起こるべくもないことが決定的となる。
そうした1つ1つの日常が蓄積されて、架空であるはずの「海炭市」が、
悲しみと纏いながら、具体性をもって眼前に立ち現われて来るのである。


本作は未完である。
それも作家の突然の自死という形での突然の終焉。
作家がどのような心境でそういう選択をしたのかは知る由もないが、
しかし、本作に限って言えば、永遠に完結しない、
そして幻の物語がこの先に存在しているということ、
この無限のループこそ、物語を生き続けさせるための完璧なしかけに、なり得ている。


本作に出会ったのはほんの偶然で、いつものようにジャケ買いをしたのだが、
この佐藤泰志という作家に今更ながら出会えてよかった。
今後も、この作家の残した作品を追いかけたいと思う。