記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

1.17を歩く

また17度目の1.17がやってくる。
今年はこれまでと少し特別な思いで迎えることとなった。
それは3.11というショッキングな出来事があったということが当然ある。
東北の人々の復興を願う気持ちと同時に、自らの震災の記憶が蘇ってきてしまった。
そしてもうひとつは、去年の1.17に放送された『その街のこども』というNHKドラマを観たこと。
震災はあの日起こった瞬間的な出来事ではなく、あの日あの時から始まったのだ。
何気ない日常であくせくと生きながらも、ふとした瞬間に阪神大震災の記憶が蘇り、
記憶の中で実は苦しさを感じているそんな何気ない登場人物たちに深く共感した。
彼らは何か心の復興の手がかりを探すかのように、深い夜の神戸の町をさまよい歩く。
そうして鎮魂の場所へとたどり着くところで物語は終わる。
自分も久々に歩いてみようか。自然にそう思い立った。5:46までの深夜行。
出発地は阪急西宮北口、そこから追悼のセレモニーが行われる三宮の東遊園地までの約18km。
出発地を西北にした理由は言うまでもない。
震災当時、電車ではここまでしか行くことができなかったからだ。
そこから西の線路は強烈な横揺れのせいでズタズタに破壊され、長らく不通の状態だった。
神戸の人々があの悲惨な現場から脱出するには険しい道のりを自力で歩くしかなかった。
その道筋を今回たどる。
歩いて何があるわけではない。復興の役に立つわけでもない。
追悼という感覚はないわけではないが少し違う、単なる個人的なものでしかないが、
ただこれは遊び気分でもないし、ましてトレーニングなどでもない。
何のために?なぜそんなことを?と聞かれても、
この気持ちをうまく説明することはできない。
ただ歩きたい、そう思い立って、ザックに一眼を放り込んで最終電車に飛び乗った。


0:15。乗り込んだ西北行き最終電車は、月曜日の晩だというのに混雑していた。
赤ら顔で気持ちよく寝息を立てるサラリーマン。
人目もはばからず愛を語らう学生カップル。
まるで明日が震災の日だというのが忘れ去られているかのようなごく平凡な光景。
これはこれで、平穏無事な日常を取り戻しているのだろう。
20分ほどで西宮北口に到着。
足早に散っていく乗客を尻目に、西北名物の柱時計を撮影する。
怪訝そうな駅員を振り切って改札を出て一呼吸。
ここから夜の街歩きが始まる。
何度も歩いたことのある道のりだが、ペースがいかほどのものか思い出せない。
当然5:46までには東遊園地に到着しなければならないし、
平日なので当然仕事にも間に合わないといけない。
何より奥さんが出勤してしまう前に帰宅しないと娘が家で独りになってしまう。
そんなプレッシャーもあるが、ただ齷齪とペースを稼いで通過するだけでは意味がない。
緩急をつけて歩いていくことにする。
小奇麗になった西北の南口、あの頃はまだ西宮ガーエンズじゃなくて西宮球場だった。
無味乾燥とした町をとぼとぼと歩く。
しばらくして山手幹線に入る。基本的に神戸まではこの山の手の道を歩くことにする。


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思いついたところでパチパチと写真を収めていく。
夜中なので露出とシャッター速度をあれこれいじったりするが、
真っ黒でなければキョウビ後でどうにでもなる。
要は構図だ。
色々撮りつつ歩いていると、客引きの兄ちゃんのように
タクシーが来るたびにスローで掠めていく。残念ながら用はないよ。
ほどなくして夙川に到着。
毎度ロードバイクで何度もこの区間を走ってはいるが、歩きだとまた違った風景。
まだ1駅だがなかなか長い。でもまだ道のりは始まったばかりだ。



ここから山手幹線はアップダウンが多くなる。
閑静な住宅街を抜けるこの山の手ルートは、時折車が行き交う以外は静寂そのもの。
孤独さが身にしみる。
そして寒い。あの日も確か相当に冷え込んだ朝だった。
手袋をしたままではカメラの作業が出来ないので素手にならざるを得ず、
手が冷たくてかなわない。
この辺の道はまだかなり目新しい。
しばらく行くと最近出来たばかりの芦屋隊道にたどり着く。
この地面の強大な口をあけているトンネルもまた、震災の遺産である。
随分と長い間、芦屋〜夙川区間が土地の買収を巡って泥沼化し、
山手幹線の全線開通が達成できなかった。
しかし震災の際、東西を横断するR43とR2が大渋滞で機能せず、
緊急車両が全く通行できない事態に陥ったことを教訓に、
第3のルートとして山手幹線開通に向けて動き出し、
数十年かかってようやく道が繋がったのだ。ここはその一番最後の区間である。
トンネルはさすがに歩行できないので、
上部にある歩行者用のトンネルをくぐって芦屋川を抜ける。



芦屋川からはなだらかに下っていき、しばらくすると神戸市灘区に入る。
甲南山手の交差でしばし撮影。
陸橋の上から車の通過するのを待つがなかなか来ず。
この辺は閑静な住宅街から、色々な商業施設も増える。
まだ目新しいビルたちは震災後に建てられたものだろうか。
人通りは決して多くはないが、コンビニの前などでは若者がたむろして騒いでいる。
岡本の賑わいを避けるように足早に去る。



水道橋で住吉川を越えたのだが、若干の上りで腰周りがしんどくなってくる。
ピッチは大したことはないはずだが、やはり寒空の中長時間歩き詰めは負担が来る。
それにぶっ続けで歩いてきたことで空腹と疲労でたまらない。
さきほど通過した摂津本山まではたくさんコンビニがあったのだが、
この辺は再び住宅街のど真ん中で、休憩をあそこでしておけばよかったと少し後悔。
御影を通過し、石屋川のコンビニでようやくひと休憩。



再び歩き始めたのが3:00。
ペースが全くつかめないままだが、このままでよいものか。
ただあと2時間あれば十分に三宮にはたどり着けるだろう。
六甲道を過ぎたあたりで、海の手側が急にぽっかりと景観が広がる。
どうやら大き目の公園のようだ。
こういうところ、例えば目新しく整備された公園や、
パーキングといった”空き地”は大体が震災の傷跡である。
少し寄り道をしてみようと下っていくとどうも見覚えがある。
全く意図していなかったのだが、その公園は
偶然にも「その街のこども」のロケ地となった場所だったのだ。
しばらくただっ広いグラウンドで立ちすくむ。
ここは公園になる以前は何だったのだろうか。
そんなことを考えながら写真を何枚か撮る。



しばらくして再び山手幹線に復帰してひたすらに歩く。
ここまでの道中、色々なことが頭の中でめぐっていた。
一番はやはり家族の事だ。奥さんと娘の顔が絶えず頭の中をよぎる。
今頃は2人とも深い眠りの中だろう。
今後いつまた大地震に見舞われるかもしれない。
そのときにどうやって2人を守ってやればよいか、そればかり考えてしまう。
そうこうしているうちに大石川に到達。
海の手を眺めると、工場群のあたりは煌々と明かりが眩しく、
神戸製鉄所の煙突からたなびく白煙がはっきりと見える。



どんどん神戸市の中心に入っていくにつれ、人もまばらに出てきた。
新聞配達の人たちがあくせくと作業している。
芳醇な匂いが漂わせながらパン屋が忙しくしている。
お年寄りたちは犬を連れて早くも散歩を始めている。
今日もまた平穏な日常が始まるのだ。
前方に年季の入った原田拱渠のアーチが見え王子公園の到達。
そこから山手幹線に別れを告げ、三宮まで3kmほど続く高架軌道沿いを歩く。
この高架軌道は一見地味だが、実は近代建築としては貴重な遺産。
道をまたぐ際にはシャープな口をあけていて実に格好がいい。




しばらく高架沿いに歩いていたが、
道の反対側がどうも商店街のアーケードになっている様子。
気になってそちらへと行ってみる。
日商店街。という東西に伸びたアーケードは裏寂しい感じがした。
シャッターが閉まる中をひたすら西へ進んでいくと思いがけず「夢」に出くわす。



春日野道で再び高架沿いに復帰し、生田川を越えるともう終わりが近い。
そのままガヤガヤとせわしない三宮に到着。
マクドでも行って、暖かいところで座って休憩したかったのだが
24hマクドはどこもなぜか空調設備のメンテだとかで臨時休業・・・
仕方がないので、もうそのまま東遊園地へ向かう。
周辺に近づくにつれかなり人が多くなってくる。
4:15に到着。約4時間ほど歩いたことになる。
広場に到着すると報道陣と市職員を中心としたボランティアの人が山ほど。
早朝ということもあって一般の人は少ないのか。
通信用のケーブルが地面を這うように張り巡らされ、
いかついカメラやマイクを抱えた人たちでごった返していた。
1.17を風化させない、そのためにこの催しを続けること、
日本中・世界中に発信することの大切さはわかるが、
一見するとメディア向けのイベントに思えなくもない。
しかし今日は余計なことは控えよう。
随分早く来てしまったが、他に寄るところもないし、
他の人に混じって寒空の中ひたすら待つ。
眠気と寒さと疲労で参りそうになった。
が、あの日無理やりに寒空に放り出された被災者を思うと大したことではない。
スタバの方がコーヒーを無料配布しはじめ、1杯ありがたく頂き温まる。



しばらくすると、竹筒に火を灯すためのロウソクの配布のアナウンスが流れたので
ブースへ行って一本分けていただく。
5:00ジャストに、炎が届けられ、それが人づてにドンドン渡されていき
一斉に点灯がはじまる。
自分も火を分けてもらい、目の前の竹筒に1つずつ点けていく。
なかなか点きづらいのと、意外と数をこなさないといけないのでてこずる。
ほぼ一通りの点火が完了するのに20分ほどだったろうか。
途中で消えてしまったり、うまくいかないものはスタッフが一つ一つ回収して、
確実に点くように手配していた。
それにしてもこの暖かくまろやかな炎の光はなんと美しいのだろうか。
この炎の1つ1つに亡くなられた方々の魂が込められているのだなと実感した。



すべての点灯が終わり、その場で時が来るのを待つ。
空気がぴんと張り詰め、ここだけ時間が凍りついたかのようだ。
誰も何も言わず、ただ時報だけが鳴り響く。
そして5:46、みな一斉に黙祷。
信仰心のない自分は、祈るということがいかばかりかと思っていたが、
祈りとは自然に出るものだったのだな。
災害で亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、
東北の一刻も早い復興を願うばかり。





黙祷の後、献花のセレモニーが行われるが、
リミットが着てしまったのでなくなく中座し足早にJRに乗り込んで7:00前に帰宅。
さすがにその日が眠くて仕方なかったが、歩くということを実現できてよかったと思う。