記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

本屋Title at 荻窪 / 『本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録』 by 辻山良雄

聖蹟桜ヶ丘を後にして、いったん新宿へ戻り、
そこから中央線で向かったのは荻窪
先日の、スタンダードブックストアでの本屋トーク
本当にたくさんのヒントを得た気がしていて、
そこで登壇されていた本屋Titleというお店に行ってみたくなりました。
新刊書籍を扱うお店、それも大型店舗ではない個人経営のもので
新規でオープンするということ自体がこの時代大変珍しいこと。
本屋トークでもやはり文化の発信基地、
知と人がコミュニケートする場としての可能性について議論されていましたが
理屈としてわかっていても、
こうやって実践することは実際問題なかなか難しいことです。
せっかく本屋トークで得た”何か”を、実や花として育てていくためには
その現場を見て、味わって、空気を感じることが大事だと思ったのです。
本当は前日までの予定では、プランに組み込むのが厳しそうだったのだけど、
予定よりも早く朝出発できたことで、
合間ではありますがなんとかねじ込んでみました。


荻窪の本屋さんTitle


で、てっきり11時オープンだと思って、
それなら1時間弱はいられそうだと思っていたのだが、
勘違いで、実は12時オープンだった(汗)
12:30の電車には乗らないと次の予定に間に合わないのだが、
駅から10分ほど離れた場所にあるため、
駅までの時間も勘定すると10〜15分くらいしかいられませんでした。
本当なら、のんびりゆっくりと、
選ばれた本やその場の空気と向き合えればよかったのですが…


本のラインナップとしては、
まず地元向けの人たちの普段使いの本屋として雑誌や新刊書籍があり、
それからテーマごとに目利きの効いた本や、
小さな出版社や地元で発行されているようなここならではの本が並んでいます。
新書、文庫、雑誌という風な形式ごとに並んでいるのではなく、
近しいテーマや、関連性によって本棚が形作られているので
見ていても楽しいし、本との出会いを探し出す楽しみがあります。
レジは少し奥まったところにあるので、店の人の目線を感じずに
思い思いに本と向き合える環境になっていて、
奥にはカフェもありました。
2階は小さなギャラリーとなっていて、
この日は『未明01展』というのをしていました。


↓開店しました


↓二階のギャラリー


ほんのわずかの時間でしたが、
そんななかでも自分の中での掘り出し物がいくつかあり、4点お買い上げ。
2階ギャラリーにも飾られていた黒坂麻衣さんの絵がとても心に残り画集を。
それからちょうど、この行きの新幹線で読み始めた
スティーブン・ミルハウザーの去年復刊されたものを発見して飛びつく。
あとは奥さんにお土産として絵本を一つ、
井上奈奈さんの『くままでのおさらい』を。
それから、MARIOBOOKSの安達茉莉子さんの
『猫と惑星に名前をつけようとしてくれた君へ』。
やはり自分らしい傾向が現れるラインナップでした。


↓本日のお買い上げ


先日の本屋トークでは体調不良で
2次懇談会を早退してしまい、お話しできなかったので
レジで辻山さんと少しだけお話し。
やはり理屈で知っているのと実践していることの
地力の差、コトバの持つ説得力というものを実感しました。
それはこれまでの経験に裏打ちされたホンモノですね。
本が売れない時代に、ネット通販や大型書店と勝負し、
本や本にまつわる文化をどう発信していくか、
またそのコミュニケーションの場としての可能性について
ある意味1つのたどり着いた答えがこの本屋titleさんなのです。


このことは、ちょうど自分の今やっている仕事にも
そのまま当てはまります。
つまり、今やネット上に大量に、しかも無料で、24時間体制で、
情報やデータが提供されている時代に、
わざわざ紙媒体という、手間もコストもかかり、
物理的なボリュームの制約があるもので勝負し、
しかもそれをお客様にお金を払ってもらって
手にしてもらうにはどうすればよいか、
その”勝負の綾”の居所を探るということと同じだなと。
それは確かに簡単な課題ではありませんが、
本が売れない売れないと悲観的になることでも意外とないんだなと。


例えば、最近深刻な問題となっている
運送宅配業者の困窮状態などでも明らかなように、
一見便利なネットやデジタルな世界の裏側で、
それを支えているのは結局、人の手だったり、
物理的な労力だったり、アナログだったり時間だったりするわけで、
それらのプロセスの部分を
消費者の目から巧妙に裏方へと隠しているだけで、
結局はホンモノの便利さではなくハリボテの便利さでしかないんだなと。
便利、便利といっても、それは消費者の狭く小さな視点でしかすぎず、
もっと大きな視点、つまり消費活動サイクル全体でみれば、
実はとても不便な世の中になってしまっているかもしれないし、
実際自分が働いて供給の側にいる時間帯のストレスやプレッシャーは
以前と比べてずっと増えているかもしれない。
そうだとしたら、丸1日のエネルギーに換算したら、
本当に便利になったか、ハッピーになったかは安易には言えないはずだ。
無料、無料といっても、そこには確かに
誰かの手掛けた時間があり、手間があり、
それに対してのなんらかの対価が支払われるべきなのであって、
それが消費者のお財布からというのを直接的に意識させなくても
どこかで、それが気づかぬうちに徴収されているかもしれない。
(例えばユーザーを囲い込むだけのポイントとかマイルとか)
つまり、自分の便利さや幸せは、
結局誰かの(自分の?)手を煩わせたり
悲しませたりして成り立っている、
そのことの想像力だったり、
いくつの視点で物事を考えるかということが大事なのであって、
そのことは、つい前の晩にN氏と深く話したことでした。
結局のところ、それで満足できる範疇のものというのは、
所詮その程度のもので、
人間の豊かさとか教養とかまでには深く及ばないのだろう。
また、そういった幸福や知恵・知識を得るのに
別に本じゃなくても構わないのと同じで、
別にネットやデジタルじゃなくてもかまわない。
つまりネットやデジタルは決して絶対的なものじゃなくて、
要は選択肢の一つでしかない。
選択の余地があれば、戦い方次第では、
強敵じゃないんだなと最近感じ始めています。
(共存だって可能でしょう)


せっかくなのでさらに議論を進めるとすれば、
例えば写真なんかでもそうでしょう。
ポジやフィルムからデジタル主流の世の中になり、
誰もがそれなりの写真を好きなように撮ることができ、
それを幅広い人に知ってもらったり、
共有したり簡単にできるようになりました。
間違いなく昔に比べたら、写真の世界はより身近になり、
何より便利になりました。
でも、それによって大量の画像が氾濫する世の中になって
果たして本当に人に感動を起こさせたり、
目に留まるようなホンモノの写真がいったいどれだけあるでしょうか。
自戒の念を込めて言えば、
フィルムの時代に一撮入魂で撮影した写真は
今見返してもその熱量がしっかりと印画されていて1枚1枚が愛おしい。
ところが、今デジカメで撮ったものは、
確かに昔と比べて気軽に大量に残りはしますが、
それは写真というよりただの記録に過ぎない。
(写真を撮っているのではなく、画像を収集しているだけ)
作業的には便利になりました。
でもそれがクオリティや豊かさを押し上げてくれているかというと
一概には言えません。
つまり、何をもって良しとするのか、
質なのか量なのか、便利さなのか豊かさなのか。
そのことを選択できるということは素晴らしいとは思いますが、
もしその選択基準となる価値観さえもが、
均一化してしまっているのだとしたら、
これはちょっと怖いような気がしてなりません。
自分自身の価値観に照らし合わせてみれば、
ツール・手段は所詮方法でしかなく、
要はそれらを使って伝えるものの中味だったり、
伝えることの熱量だったり、本質を追求するということです。
それが実践できるかできないかは難しいところではありますが
少なくとも安易に便利だからとか無料だからと
飛びつくようなことはしたくないし、
考えるということ、コトバにするということは続けていきたい。


これらの根幹にある問題の本質は皆同じです。
そしてそのことをきちんと踏まえたうえで、
こういった先駆者がきちっと根を張って
実践していただいているというのが本当に心強いところです。


今回は本当にわずかな滞在時間でしたので
また次の機会にゆっくりとお邪魔しますとご挨拶をして
店を後にしました。
そこからダッシュで駅まで。
なんとか予定の時間の電車に飛び乗ることができました。


本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録

本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録