記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『君の名は』 by 新海誠

日曜日。
次の仕事に関連があるので
今話題の『君の名は』を観に。
おっさん一人で行くのもこっ恥ずかしいので長女と一緒に。
webで梅田の劇場を予約しようとしたら
すでにどの回もいっぱいだったので、大日イオンまで。
さすがの人気もあって
なかなかエンターテインメント作品としては楽しめる作品でした。
小学生の娘にもわかりやすい話の内容で、
映像も美しく。
こういう作品が今のメジャーになってきたのだなというのが実感。


ただそれが今後の日本のクリエイティブの発展にとって
いいのか悪いのか。
うまい例えではないけれど、
津軽海峡冬景色』のような奥深くて抒情的な歌に対する
恋するフォーチュンクッキー』のような感じというか、
地元の市場で売ってる新鮮で不格好な野菜に対して、
徹底管理されたトップバリュー製品というか、
こういう味付けが濃くて中毒性のある
インスタントなものばかり味わってたら
きっとヤヴァイだろうなあという怖さがあった。
辛口映画評論家としてはちょっと言っておきたい。



本作の一番の魅力は何といっても背景の精密な描写だろう。
監督の出身地である長野県の諏訪や飛騨地方、
そして東京の風景はまるで本物そっくり。
実際にそのシーンの元になった実物の場所を訪ねる
聖地巡礼も盛んにおこなわれているという。
確かに背景の描写はすごい。
でもそのすごさが、作品の本質である物語の薄っぺらさを
補うというより包み隠す巧妙なすり替えになっていて、
どう、この背景の描き方すごいでしょと
半ばクドイほどの強引さを終始感じた。
背景の描写の精密さというのは、本作に限らず、
日本アニメのお家芸ではある。
でも、例えば宮崎アニメの背景の精巧な描写は、
それ自体が作品の主役なのではなく、
物語をより身近にリアルに感じてもらい、
その世界観へスムーズに導入するための
手段の1つに過ぎなかったはずだ。
または、重厚な物語に耐えられるだけの
ビジュアルのクオリティを追求した結果だろう。
確固たる物語。伝えたいメッセージがまずあって、
その骨組みを確かに肉付けするものでなければ
それは単に風景を模写しただけのことに過ぎない。
模写を自慢するだけだったら、それは映画とはいいがたい。
なぜなら、映画とは総合芸術だからだ。
例えば、英語はコミュニケーションの一手段で
習得した英語で何をするのかが大事なはずなのに、
それを学ぶということだけが目的化し、
そのちっぽけなステータスに満足してしまうような小さな人間がいるが、
それと同じような目的と手段の取り違えが大いにある。
背景の描写の精密さというのは作り手も見る側も、
その審査基準が明確でわかりやすいポイントだが、
情熱と労力を注ぐ方向性が割合がどうも違うような気がする。
背景の精密な描写は金と時間をかければ、誰でも実現可能なこと。
それを実際やるかやらないかというのは
確かに大きな差であり、評価されるポイントではある。
でもクリエイターにとって肝要なのは、
現実にあるものを模写することではなく
想像力の豊かさにあふれた物語性や、
誰も考えもつかなかったような世界観を
表現することでなくてはならないと信じたい。


続いて気になったのは演出過多、
特に音楽が雄弁しすぎて、
はっきり言って余計な場面が多かった。
画と音の関係性というのは映画にとっては
おそらくもっとも重要な要素で、
音楽の壮大さで無理やりクライマックスを盛り上げるような
程度の低い作品は、国内外問わず山ほどあるが、
映像にそれらしい音楽を乗っけてさえすれば
もっともらしい作品になるし、
逆にその使い方を誤れば、全く拍子抜けすることもある。
まさに演出のキモ。
本作ではもっと登場人物の感情に寄り添いたい、
感情移入したい感じる場面でも、
いちいち過保護に曲を乗せてきて、
それがインスト曲ではなく、
歌詞付きなので歌が画に勝ってしまって、
感情の余白というか見る側が入り込む隙間が
一切なくなってしまうことがあった。
あれが久石譲さんならもっとうまい塩梅でやるんだろうし、
物語に自信があれば、あえてキモのシーンでは
一切の音をつけずに画に集中させることだってできたはずだ。
何でもかんでも味付けを濃くすればいいというものではないし、
ここでもやはり物語の薄っぺらさをひた隠しているかのような
自信のなさを感じました。
バラエティ番組で、ネタはたいして面白くないのに、
テロップを多めに入れて笑いを盛られているようなあの感覚に近い。
自信がない人ほど音楽に頼る、これ、映画あるあるですね。


あと、意外な問題はそれを見る側のクオリティの低さ、
とくに感動に対する敷居が恐ろしく低い。
これは本を読まないという世代的指向の問題、
スマホでのコミュニケーションが当たり前の世の中では
レスポンスのクイックネスがことさら重要視されるようになったり、
LINEスタンプやインスタ投稿のように
中身ではなくヴィジュアル至上主義になっているという点がやはり大きい。
要は物語の精密さではなく見た目重視、
文脈をじっくり読み解くのではなく、
手っ取り早く面白いということが求められる世の中になったということだ。
見る側の指向のレベルが高くなければ
クリエイターは絶対に成長しないし、
逆に成長しないクリエイターの作品がスタンダード化すれば、
見る側のレベルも高くならない。
今の世の中、双方が面倒くさいプロセスを取っ払って、
横着をしている気がします。
その面倒くさいプロセスこそ面白い醍醐味のはずなのですが…


これは別にアニメに限った話ではなく、
実写の邦画やTV番組、漫画、音楽、そして現代アートの世界ですら…
あらゆるクリエイティブであるべき世界で起こっている現象。
実際、映画が始まる前の予告でも、
同じようなテーマ、同じようなキャストが、
2Dか3Dか表現方法が少し違うだけでやっていることは
全く同じことをしている作品のPRばかりで愕然とする。
(胸キュン少女漫画原作を若手実力派俳優と呼ばれる人たちが演じるのばっか)
それらには、何かを表現したいとか、何かを生み出したいとか、
やりたいことをとことんやるという
自分の内面から湧き上がってくるパッションではなく、
何が売れるか、何がウケるかという
他人からの評価を出発点とする打算しか感じ取れない。
そこにイマジネーションはあるのか。
そこにクリエイティビティはあるのか。
面白ければ、話題性や興行がよければ名作というわけでは決してない。
残念ながら、同じアプローチを続けるようなら新海さんや細田守さんは、
宮崎駿押井守にはなれそうにない。