記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

マダムとグルスキー

前の週の土曜日。
この日は奥さんもお休みで、午前は3人で音楽教室へ。
引き続き発表会に向けての練習。
それが終わったら、今日は大事なお客人・マダムをお迎えに上がります。
ようやく役者が揃ったって感じだな。
久々の再開に娘は最初はモジモジ君だったが、
しゃぶ亭ランチあたりから本領発揮しはじめる。


↓しゃぶ亭ランチ


ランチの後は自宅へ。
昔話とか、人生設計の話とか、猫の話とか話題は尽きず。
そうして例のプロジェクトの話。
あまり詰め込むといけないので、少し長めの準備期間を設定し、
とりあえずオシリを今年11月に決定!
いよいよ動き出すな。といっても結局あっという間に時間は経って
締切間際になってドドド〜っと駆け込むんだろうけど。
大まかなヴィジョンはすでに描けているし、あとはそれをどう具体化していくか。
これでまた楽しみが増えた!忙しくなるぞ!


↓マダムとネル


日曜日。土曜晩からの遠征を検討していたが、ヨルの具合もあって断念。
行ってたら雪で遭難してた。
ということで、現在進行中の小さい案件に集中して朝まで夜なべ。
で、案の定、昼過ぎまでどっぷり寝坊。
これでは近場を流すのもちょっときびしい時間となったので、
今日は家族デーにします。
娘がうどんを希望ということで、中崎町の力餅へ。
お久しぶりのお母さん、丁寧にとられたお出汁にほっこり満足。


↓力餅ランチ


昼からでも少し近所を走ろうか迷ったが、
中途半端に走っても満足度は得られないので完全にあきらめ、
家族でチャリを飛ばして、中之島国立国際美術館へ。
見に行きたかったアンドレアス・グルスキー展に行きました。


国立国際美術館


アンドレアス・グルスキー


現代写真史における最重要人物の一人アンドレアス・グルスキーの展覧会。
大量生産・大量消費の現代社会の光と影を大胆不敵に切り取った写真たちの、
パノラミックで本質を見据えた視点が多くの称賛を浴びている写真家です。


例えば、中国の広大な工場で働く無数の従業員の様子。
あるいはカオスと化した証券取引場の一場面。
一部屋一部屋色とりどりの表情を見せるパリ郊外のアパートメント。
突如として、黒いアスファルトや人工物によって切り刻まれた砂漠。
果てしなく続くごみの山。
北朝鮮で繰り広げられるマス・ゲームの様子。
大型安売りスーパーの陳列棚に並んだキャッチーな包装に包まれた菓子類や日用品たち。
そして無数に並んだ金色の球体が怪しく光を放つカミオカンデの神殿・・・


これらの写真が放つメッセージとはつまり、
大量生産・大量消費社会の現代における
モノ(個)とマス(集団・組織)との危ういアンビバレンスな関係性である。


つまり、これらに映り込んだモノの1つ1つ、
あるいは切り取られた風景そのものは、
何の変哲もない普遍的な価値しかないものである。
しかし、それらがある意図をもって圧倒的な物量で蓄積・成型されることで、
本来それらのもつ価値や意味とは別の次元で、
新しい価値や意味を獲得するのである。
あるいは別の生命体へと進化を遂げるといってもいいかもしれない。
個が集団・組織としてまとまる・リンクすることで生じる一種の進化である。


こうして日常生活で当たり前のように接しているはずのモノや風景のもつ、
別の側面、別の意味を提示され、その新しい発見に驚き感動する一方で、
我々は同時に、これらの写真に対してある種の恐怖や畏れも感じる。
それは、例えば映画『マトリックス』の序盤に登場する、
無数に並んだ人間電池工場の風景を見せられた時のそら恐ろしさである。
つまり、そこに映る一つ一つの要素、1人1人の豊かな個性あるいは人生というものが
全て回収され、個々の意志とか想いといったものが消失し、
集団・組織が1つの強固で無機質な単体物として一人歩きしてしまうということへの
無意識的な恐怖だ。


例えば、上海の超高層ビルのオフィスを映し出した写真。
この写真からは、このビルに移る証券会社がいかに財力と権力をもった
強く大きな組織であるかということが伝わってくる。
しかしこの写真からは、それらを形成しているはずであろう
無数の従業員たち1人1人の人生や思いまでは伝わってこない。
むしろ、それどころか、そのうちの1人誰かがこの中から抜け落ちてしまったとしても、
この写し取られた風景に何ら変わりが生じないのである。
そのわずかな変化に誰も気づくことさえないかもしれない。
つまり、我々人間は、いつでもどこでも、代替可能なパーツ、
個性を持った人間ではなく数で表される労働力へと置き換えられてしまったのである。
生産の効率化とグローバルな均一化によって着々と整備されていく現代社会、
全て0と1の集合体として置き換えられてしまうデジタルな世界に対して、
結局はアナログな生物でしかない人間は、
結局は愛や人情に訴えかける以外にもはやなす術がない。
その無力感、脱力感、恐怖といったものが、
これらの写真たちからじわりと顔をのぞかせるのである。


グルスキーの写真が表しているのは、
まさにシュミラークルとシュミレーションの実践である。
この相矛盾した現実を絶妙のバランスで抽出しているからこそ、
我々はありふれた日常生活のありふれたワンショットに潜む本質に驚愕するのである。



ところで、これらの作品のなかに、F1のピットストップの瞬間を切り取った1枚がある。
同時にピットインしてきた2台のマシン。
一方はTOYOTA、一方はHONDAである。
双方ともたくさんのメカニックがマシンに取りつき、交換・給油作業をしている。
その頭上では、その作業を興奮気味に見守る観客たち。
誰も自分たちを狙っているカメラの存在に気づいていない。
ただ1人、中央に凛とたたずむ1人のディーバ(女神)を除いて…
この写真はまるで、ギリシャ神話をモチーフとして描かれた宗教画のような
神々しささえ感じることのできる1枚である。
その構図や視点の素晴らしさはもちろんのこと、
そこに内包されるメッセージの明快さである。
つまり、誰もかれもが目の前の競争にばかり目を留め、
それらを俯瞰して世界がどういった姿をしていて、どう変化していくのかということに
あまりに無頓着であるということである。
このことはつまり、目先の経済的競争原理ばかりに躍起になり、
大局的に世界や歴史を見つめることをしない人類に対する
強烈な批判と皮肉が込められているのである。
それは何もこの写真の中に収められた人間たちだけに対するものではなく、
この写真を見て物事の本質に初めて気づき驚嘆する我々もまた同類なのだ。
そういう意味でグルスキーはまさに神の目を持っていると言ってもいいかもしれない。
これはまさに、消費神話(J・ボードリヤール)を克明に描き出した
現代おける宗教画(イコン)なのである。
つまり、一見無機質な風景を切り取った風でいながら、
実はきわめて人間臭い感情をも内包している。
だからこそ多くの人の共感を得、人々の感情を刺激し、賞賛されているのだろう。
ただ単に写真展としても面白かったが、
示唆に富む視点に触れて非常に興味深い展覧会だった。


↓参照文献①「消費社会の神話と構造」by J・ボードリヤール *社会学部生の必読書

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版


美術館から帰宅後は、夫婦で晩御飯づくり。
昼飯が遅かったうえに、さっきカフェでお茶をしたところなので
あまりお腹は減っていない。
こんな寒い日はやはりお野菜たっぷりのスープに限ると、
役割分担をしてミネストローネ。
コトコトしている間にちゃちゃっとお酒のアテを作っていただきます。
この週末もいろいろ楽しい週末でございました。


↓晩は家呑み