コトバって大事
その人となりや、育ってきた環境や境遇、思考というものは、
顔に刻まれると同時に、
その人の発する言葉にも乗り移る。
言霊というコトバがあるけれど、
真面目に頭を使って考えている人間からは、そういう言葉が出るし、
品格を重んじてきた人間からは、上品な言葉遣いが発せられる。
自分が師と仰ぐ松本隆さんが紡ぎ出すコトバというのは、
まさしく彼の中で鮮明に描き出された”風街”の風景の
断片そのものであるし、
先日亡くなられた野際陽子さんは自分自身を指していう場合に、
「わたし」ではなく「わたくし」と表現してきたのも、
彼女のもつ気品さの表れである。
逆に、人を見下したような人間からは
暴言や汚い言葉が出てくるのは当然だし、
過激な右翼思想に呪われた人間からは、
そういったたぐいの過激発言が出る。
コトバというのは勝手に独り歩きして
自分の意思とは無関係に口からに飛び出てくるものではなく、
頭と心と常に三位一体のものであり、
それが表出された一形態であるのだから、
コトバを発した後で、いくら撤回しても全くの無意味である。
コトバに信頼がない人間は、イコール信頼のおけない人間である。
ましてコトバを簡単に取り下げたり、
ごまかしたりするような人間は程度の低い人間である。
困ったことに、そういった忌むべき事態に対して、
その言葉尻だけを揚げ足取りのように言うのはどうか、
それよりももっと大事なことがあるだろうと、
批判をするような人間がワンサカいることに深く失望する。
きっとコトバの重みが何たるかを知らずに
上っ面でしか生きてこなかった可哀そうな人間なのだろうが、
そういう連中には知性も教養もないのだろうか。
そして、そういう人間があまりに増えてしまったから、
己の言葉に責任を持たない、
発言の責任を取らないことがまかり通るのだ。
これは、はっきりと恥じるべき風潮だ。
コトバ以上に大事なものなど、
コトバで言い表せないものくらいしか思いつかない。
そしてこの風潮はさらに悪い影響を及ぼしている。
自分が発言に責任を持たない、持てない人間が
あまりにも蔓延してしまったがために、
ガツンと言いたいことを言い放つような人間が、
まるですごい人間、頼りになる人間に見えてしまい、
それがカリスマ化してしまう。
まるでコトバと責任のアウトソーシングか。
何でもズバズバいうようなTVタレントが
毒舌だのなんだのもてはやされたり、
できもしないホラを平気でいうようなアメリカの大統領や、
日本の官邸のアホ連中なんかがいい例だ。
でっかい拡声器をもっていることが正義なのなら世界は暗黒だ。
ペンは剣よりも強しという言葉はもはや死語なのだろうか。
SNSの登場で、確かに誰もが声を上げることができるようになった
というのは喜ばしいことだが、
その結果何が起こったかというと、
大富豪ゲームでいう”革命”のように、価値観の逆転が起こったのだ。
ニュースの最前線に張り付き、目撃をし、
情報を自らの足でつかむメディアの人間は、
詐欺や欺瞞となり、
そのメディアの情報の又聞きを、何の裏付けもなく、
感情にまかせて、無責任に匿名で
ネット上に情報を拡散する輩の方の声の方が力を得たのだ。
(そしてそういった輩から新しいメディアの担い手が出てくるからメディアの質が下がる)
彼らは何をもって自分の発言に根拠があるのか、
自分にはまったく理解できない。
ただ感情に身を任せ、欲望に身を任せたコトバたちが
世界を動かしているのだとしたら、
それはもう自分のことを棚に上げて
アベやらなんやらに文句も言えまい。
今、試されているのは
コトバによって導く側の人間だけではなく
コトバによって導かれる側の資質でもある。
そのことにそろそろ気づくべきだ。
今のところ日本の行く末、世界の行く末が見えない。