記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『大阪的』 by 江 弘毅・津村記久子

ミシマ社の人気シリーズ「コーヒーと一冊」は、
その名の通り、コーヒー一杯を味わう時間で
一冊を読み切れるサイズ感が、取り付きやすくて嬉しい本です。
今回は、作家の津村記久子さんと、
meetsの編集長だった江さんによる大阪談義。


大阪的 (コーヒーと一冊)

大阪的 (コーヒーと一冊)


津村さんの大阪評は、「できるお姉ちゃんのいる次女的立場」で、
それがなんとも歯がゆいというもの。
東京という”できる”長女に対しては
常にコンプレックスや対抗意識があるから、
それに負けじとアレコレ頑張ってみても、結局できる姉に勝てない。
かといって、三女や四女のように自由奔放にはできないから、
個性があるようでいて、実は個性が発揮できず、
誰かの真似事、二番煎じに甘んじている地味な存在。


そんな大阪が二位の地位に甘んじるくらいなら、
もっと他の地方都市がそうであるように、
東京に対抗した生き方を捨てて、
もっとローカルに属しているという感覚で
生きてゆくべきじゃないのという提案。
ナルホド。ナルホド。


東京のどこの駅前にもあるような、
リッパなグランフロント大阪をつくるくらいなら、
もっとコテコテで格好悪くてもいいから、
地元感丸出しのザ・大阪な猥雑なもの作ればよかったのにと思うし、
地方ならその土地の名産やご当地感を平気で丸出しにした
建物や売り出し方ができているのに、
大阪はなぜか、そういう体面を装って、
結局、どこか東京を意識したような、凡庸なものができてしまう。
結局、変なコンプレックスに動かされて、
”ええ恰好しい”をすることで、
大阪らしさがない、自由がない、フツーってなってる。
大阪では、アホとか馬鹿とか言われるより、
おもんないって言われるのが一番嫌なはずなんちゃうん。
簡単な物言いで書かれているけど、
実はけっこう核心的なお話だと思います。


あと、江さんとの対談で、関西弁についての話題があって、
それも普段自分ではなかなか意識しない側面を、
わかりやすく書かれていて、なかなかに面白い。
関西弁と言っても河内のそれと、東大阪のそれと、摂津のそれと、
全然イントネーションも、言い回しも、ニュアンスも違う。
それが関西の人はその微妙な差異をちゃんと感じ取っているというか、
それが至極当然のこことして使い分けられていて、
そんな身体化された言語というのは、世界的にも稀ではないか。
そして、そのコミュニケーションにしても、
常に水位の上げ下げみたいなこと、
相手を敬ったり、馬鹿にしたり、間合いを測ったりという、
実はすごく高等な技法が無意識的に使われていて、
なおかつ、そこにボケ・ツッコミという役割的なものまでを盛り込んだうえで
会話が成り立っている。
しかもそこに正解と言える正解はなくて、
その場の状況や相手との親密度に合わせて、有機的に変化していく。


そういう自由さや、老獪さを本来持ち合わせた関西人なのだから、
なに一つの大きな指針(東京)に囚われて、
そこに染まる必要もないのに、なんでかなああ。
お江戸ってそんなエライんかなあって思ってしまいます。
個人的には東京なんかすっ飛ばして、
東洋のバルセロナになったらええのにと思います。
突然、わけのわからないオブジェや無茶な建物がバーンとあって、
ずっと完成しない建物があって、とにかく自由が溢れた街。
おもろいやろなあ。