記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

塩田千春展:魂がふるえる

東京遠征、2つ目は六本木ヒルズ

お目当ての前に、こちらの「塩田千春展」へ。

 

塩田さんは現在、ベルリンを拠点に活躍される現代芸術家。

(なんと京都精華大卒!)

黒や赤の糸を張り巡らせた

インスタレーションは世界から絶賛されていますね。

すごいという噂は聞いていたが、

あまり予備知識を入れないでやってきました。

 

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早速会場へ入ると、

真っ白な部屋におびただしい数の赤い糸が張り巡らされ、

まるで有機的な何かに空間が丸ごと浸食され

乗っ取られているかのよう。

『不確かな旅』と題されたその圧倒的な光景は、

美しいと感じると同時に、

なにか邪悪さが表裏一体となって飛び込んでくる。

 

赤い糸から一番連想されるのは、

人と人とのポジティブな絆で、

それが密接に絡み合うネットワークに

思える人もいるかもしれないが、

自分には、まるで血なまぐさい悪性の癌が取り付いているような

そんな不気味さを感じた。

 

まあ人によって感じ方はそれぞれで、

アートの見方に正解などそもそもないのだけど。

 

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自分が一番展示の中で印象的だったのは、

1997年にハンブルグで展示された

『私の死はまだ見たことがない』という

インスタレーションの解説だった。

展示のために、約一か月の間毎日、大学から食肉処理場へ通い、

牛の顎骨を電車で運んでは、骨についた肉をそぎ落とす。

そうしてそろえた180個もの頭骨を死の象徴として円型に並べ、

その中央に正の象徴である玉子を置いた作品だ。

 

死そのものをダイレクトに表現するその不気味な光景には、

恐怖ではなく、なぜだかとても自然的普遍性を感じるし、

逆に、この作品をせっせと制作している様を想像すると、

そちらは逆に生の行為でありながら、

死よりもよっぽど不気味で、

幾つものパラドクスが仕掛けられているように感じる。

 

死はまさしく、アートの対象だ。

なぜなら我々は自らの死を体験することはできないからで、

(正確には自らの死を再現できない)

不確かな死という現象に誰かの死を受けて

イメージし感じるしかない。

死を恐れ、遠のけるにしても、死を受け入れるにしても、

いずれにせよ、それはイメージなのだ。

 

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一転して『小さな記憶をつなげて』という作品は、

ミニチュアのおもちゃや子供時代の思い出の品々が

赤い糸で結ばれていて、愛おしさを感じられる作品。

先ほどまでの張りつめたようなテンションが、

この一角だけはすっかり溶解して、

優しさに満ちた空間に思えたのは、

作者が病魔との闘いを乗り越えた経験から、

(本作オファーの翌日に癌が発見されたという)

世界との新たな向き合い方を得たからなのか。

 

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 続いて『静けさの中で』と題された黒の部屋へ。

黒い糸が至る所に張り巡らされた部屋には 

火事で燃えて朽ち果ててしまった古いピアノや、

大切に衣装ケースにしまわれた白いドレス。

まるで誰かの記憶の墓場へと迷い込んだような感覚。

黒は過去の記憶を表現しているのだろうか。

赤の世界に比べて不思議と恐ろしさは感じず、

むしろ、悲しみを通り過ぎた先にある、

狂気的ではあるけれど、どこか懐かしい優しさを感じた。 

 

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作者が蚤の市で買った古いトランクの中に、

第2次世界大戦の新聞が入っていたことに

インスピレーションを受けて作られた『集積 目的地を求めて』は、

ありとあらゆるトランクが天井から記憶の赤い糸によって吊るされ、

それらが自重で揺れ、トランク同士がぶつかり、

小さくぎしぎしと音を立てているという、見たことのない光景。

先の大戦で、数えきれない人たちがまさにこのトランク1つを全財産に、

荒野をさ迷い歩いたであろうことを連想するし、

その負の行進は、まさに今この現代において、

深刻化するシリア難民や、

アメリカの分厚い国境の壁に行く手を遮られた人々などによって

続いているということを考えざるを得ない。

そしてこのトランクに結びつけられた赤い糸が、

何かの拍子で切れてしまったら、どれだけの衝撃が起こるのか、

そういう極めて不安定で不穏な様相が

まさに命綱の世界情勢を物語っているように見えた。

 

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ということで、時間的な問題で

ざっと駆け足でしか見て回ることはできなかったのは残念だったが、

これぞアートという渾身の表現力に私の魂もふるえました。

 

当然、人によっていろいろな観点があるだろうし、

作者の意図もまた別に存在するのだが、

塩田さんのインタレーションからは、

例えばアンドレアス・グルスキーの、

印画紙の隅々目いっぱいまで

圧倒的大量のモノ・コトが映し出される

あの写真たちから受ける印象と非常に似た恐れや不気味さを感じた。

つまり、そこに映る一つ一つの要素、

1人1人の豊かな個性あるいは人生というものが

全て回収され、個々の意志とか想いといったものが消失し、

集団・組織が1つの強固で無機質な単体物として

一人歩きしてしまうということへの無意識的な恐怖だ。

わかりやすく例えれば、映画『マトリックス』の序盤に登場する、

無数に並んだ人間電池工場の風景を見せられた時のそら恐ろしさといえば

より想像しやすいだろうか?

そういう意味で、これも、現代アートが主題目としている

大量生産・大量消費の現代社会に対する

一種のアンチテーゼとも捉えることができるだろう。

 

余談ではあるが、アートは色々な問題提起や

不確かな事象(未来・死・夢)を、作者の眼を通して

可視化した結晶であるのだから、そこには必ず主張が存在する。

もちろんその主張が受け入れられたり、曲解されたり、

完全に拒絶されたりして、

作者の主張がそのまま正確に存在するわけではないが、

観る者1人1人が、作者の主張を読み解く行為を通じて、

自らの内なる部分に議論のさざ波を起こす、

その現象こそがアートそのものなのであって、

目の前に置かれた絵や物体、オブジェクト自体が大事なのではない。

つまり、アートは決まりきった使用方法の定められた製品ではなく、

思考の対象なのだ。

それは「良い/悪い」「好き/嫌い」「役に立つ/役に立たない」を

単純に選択するような行為ではなく、

目の前に差し出された創造世界に対して、

自分がどういうスタンスを取るのかということだ。

だから、政治的でないアートなどそもそも存在しないと自分は考えているし、

実際、政治的でないアートに未だ出会ったことがない。

(ここでいう政治的とは、いくつもの相反する議論や論理が交錯し、

それが収斂されて、一定の価値や評価が許容され共有されるという意味)

ただ、作る側のアイデアも見る側の思考も、

おおよそ消費的価値観(損得と忖度)に基づいた

発想や動機付けによって

随分汚染されてしまってしまってはいるけれど…。