記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『新編 風雪のビヴァーク』 by 松壽明

1月6日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ.何トカ湯処迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシヤ.一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス.
何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ.
ツヨク生キテ下サイ.
井上サンナドニイロイロ相談シテ.
井上サン
イロイロアリガタウゴザイマシタ カゾクノコトマタオネガヒ.
手ノユビトーショウデ思フコトノ千分ノ一モカケズ モーシワケナシ、
ハハ、オトートヲタノミマス
有元ト死ヲ決シタノガ 6:00
今 14:00 仲々死ネナイ
漸ク腰迄硬直ガキタ、
全シンフルヘ、有元モHERZ ソロソロクルシ.ヒグレト共ニ凡テオハラン
ユタカ、ヤスシ、タカヲヨ スマヌ、ユルセ、ツヨクコーヨウタノム.
サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニユク
我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル
個人ハカリノ姿 グルグルマワル
竹越サン 御友情ヲカンシャ.
川上君 アリガトウ
西糸ヤニ米代借リ、3升分、


新編・風雪のビヴァーク (ヤマケイ文庫)

新編・風雪のビヴァーク (ヤマケイ文庫)


松壽明。
戦前戦後、日本山岳のパイオニアとして黎明期を支えた伝説のクライマーであり、
混乱と貧困の時代に、谷川岳一ノ倉沢や穂高岳滝谷、八ヶ岳などで
輝かしい功績をあげた稀代のアルピニスト
1948年12月、パートナーの有元克己とともに槍ヶ岳北鎌尾根から槍・穂高縦走に挑戦中、
季節外れの大雨による遅延と、その後の爆雪のために遭難。
翌年1月6日、千丈沢四ノ沢出合にて非業の死を遂げる。享年28歳。
(ちなみに槍ヶ岳北鎌尾根は、かの加藤文太郎が1936年1月に遭難死をとげた場所でもある)


本書は彼が所属した登歩渓流会の「会報」・「年報」などに寄稿した手記を収録したもので、
これまで4回刊行されている山岳本の古典であるが、ヤマケイ文庫創刊の第一期刊行に選定されたもの。
前半には、彼が成し遂げてきた数々の魅力的かつタフな山行の細かな記録が綴られている。
冒頭に記した遺書のあまり鮮烈さに、薄れ気味にされてしまいがちなのだが、
特に冬季単独縦走や数々の初単独登攀など、彼の残した足跡の1つ1つが素晴らしい。
優秀なクライマーほど自ら切り開いたルートの記憶が確かだが、
松壽も例外ではなく、その詳細に渡る記録からは、手に取るように登攀の状況が見えてくる。
(山の専門用語を知らないと呪文のように見えるかもしれない)
何より彼がどれほど山を愛し、頂を欲していたのかが、言葉の1つ1つからにじみ出てくる。
そして彼の歩んできたとてつもない足跡の積み重ねがあるこそ、
ラストを迎える表題の「風雪のビヴァーク」が、より際立つのである。


また彼の考え方には深く共感を覚える。
彼は至上主義ではないものの、多数のパーティーによる極地法による登山を奨励せず、
今で言うアルパインソロの先駆けであったし、
何より、ルートファインディングや登頂時間のみを競い合うような競技としての価値を認めなかった。
純粋に自らと大いなる山との対話にのみに心血を注ぎつつけるという点では、山野井さんと繋がる。


そして冒頭に記した遺書である。
遭難に向かっていく経緯についてはここでは省略するが、
最初に断っておかなくてはならないのは、彼らがいくら優秀なクライマーとて、
遭難死という事実は明らかに彼らの失敗であり敗北であるということだ。
登山とは頂を制するだけにあらず。生きて家に帰りついてこそ完結するものだからである。
その点については彼らを英雄視したり、センチメンタリズムを投げかけるべきではない。
しかし、死と対峙するその潔さ(登山人としての覚悟)と、
死へ向かう過程を克明に記録し続けることで自らの死を後世への糧とせしめんとするその姿勢には
強い衝撃と深い畏怖の念を抱かざるを得ない。
死の瞬間まで誇り高き登山人を貫き通したのはまさに立派の一言である。
自分がいざ死が決定的となった時に果たしてこれほどまで沈着冷静でありつづけられるだろうか。


山へのあこがれや、登山の興奮を単純に覚えるのではなく、色々なことを考えさせられる1冊だった。