記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

黒部 関電ツアー  〜高熱隧道を往く〜

木曜日。早々に仕事を済ませて18時帰宅。
電車の時刻は19:21発。慌てて身支度をする。
黒部は相当の寒さが予想されるのでウェア類をしっかり持参する。
支度はそれだけではなく、翌日にはとんぼ返りしていざ東京へ向かわねばならない。
マシンセッティング自体は前の日に終わっていたが、持ち物の用意とか色々。
あと、前輪をよく見たらサイドに大きな切れ目が入っていてチューブがはみでそう。
近場なら問題なさそうだが、ロングとなると不測の事態が考えられる。
大慌てで近所のチャリ屋に駆け込み、タイヤを購入。
ちょうどイエローのFUSION3があったので、それにしたのだが、これが硬い!
30分ほど全力でタイヤ交換したが、全然はまらず、タイムアップ。
そのままの状態で、大急ぎで大阪駅へ向かう。
で、案内板を見たら次のサンダーバードの出発時刻が20:05になっている。
ん?おかしい。19:21の便は?
駅員に聞いてみると状況をわかっていないようで、方々に連絡を入れてもらうと、
どうも北陸地方で強風のため一時運転見合わせとなっていて、
その影響でまだ電車が到着すらしていないとのこと。
がーん。困ったぞ。予定の電車なら富山で終電に間に合うので魚津までいけるはずだが
その希望が断たれることになる。
それはどういうことかというと、野宿決定ということ。
色々調べて見ても富山駅周辺で深夜にあいている店は全くない。マクドすらない。
ただ魚津駅前にネカフェがあって、そこで始発まで時間をつぶす、
仮眠するつもりだったのだが、そのプランがしょっぱなから崩れることになる。
かといって翌日9:20に宇奈月集合するには、富山電鉄の始発でしか間に合わない…
もはや行くしかないのである。
で、その遅れている電車はいつになるのか、聞くと20:45とのこと。
まだ1時間以上もあるじゃないか!
便の変更をみどりの窓口で問い合わせるも、
金沢までなら早い便があるようだが富山まではこれが最速。ということでそのまま。
1時間無駄に時間をつぶすくらいならと、慌てて帰宅し、再びタイヤ交換にチャレンジ。
どうにかこうにか前輪ははめれたが、後輪は時間切れ。
汗だくのまま再び大阪駅へ。
すると奥さんが残業終わったとのメール。
ひょっとしたら出発ギリギリで会えるかもと、頑張ってもらって、
サンダーバードが入線してくるギリギリに到着してお見送りしてもらいました。
電車が動き始めてようやく一息つく。
電車に乗る直前で阪神百貨店で買った松坂牛飯を食べながら、
東京ライドのための予習でひたすら地図とにらめっこ。
飯を食い終わったら、とにかく仮眠する。富山で寒空の中、野宿なのだ。
ここで寝ておかねば明日の関電ツアーはおろか、
その先の東京ライドまで深刻な状況になる。


↓豪勢に松坂牛飯


倶利伽羅辺りで目覚め、いそいそと野宿の準備。
タイツを履き、フリース、ダウン、レインウェアを着る。
あとはニット帽に手袋。富士山頂の時と同じだけの防寒。
で、富山駅で降りる。
乗車券は魚津まで買ってあったので、払い戻しがてら不満を言ってやろうと駆け寄ると、
タクシーで目的地まで振り替えしてくれるというではないか!
おお、これで野宿回避♪
さっそく駅員に従ってタクシー乗り場まで行き、タクシー券発行してもらい乗る。
このタクシーのおっちゃんが気さくな人で、あれこれと話してくれます。
富山の名物は何だとか、子供のころのエピソード、
あるいは大阪空港までの超距離客を乗せた話とか、なかなか飽きさせずに面白かったです。
で、深夜も2時近くになってようやく魚津に到着。外は雨。
メーターは12000円ほど。これが自腹だったら完全に死んでました。
一応明日の朝発つ駅の場所を確認してから、ネカフェまで少し歩く。
発見し、入店し、会員登録を済ませて、リクライニングのPCシートへ。
5時にはたつので3時間パック。
昔ネカフェでバイトしてたので大体の要領はわかる。
掲示板に書き込みをし、そのあとは翌日の東京ライドのための調べ物をしてたら、
2時間ほどしか寝れなかったし、なんか姿勢がうまく取れず、
寝違えたような感じで余計に疲れた。


↓魚津のネカフェが本日のお宿


朝、寝たような寝てない様な中5時に店を出る。
入会費含め何気に3000円近く、予想以上の出費。足りるか?
外に出ると雨。まだ夜も明けぬ中、駆け足で駅へ向かう。
朝しっかり食べておかないと、山中では当然何もない。
朝イチなんで、宇奈月でも店が開いていない可能性があるので、
セブレイに入って朝飯を買う。
と、ご当地グルメのイタリアン焼きそばを発見し、朝からヘビーと思いつつ購入。
レジ前に大量に「富山県民手帳」なるものが並んでいて面白かった。
県民必須アイテムなのかしらん?
で、富山電鉄の新魚津駅へ。どうも駅員は7時まで不在のようなので、
そのままホームに入って待合所にて朝飯を食べる。
焼きそばの麺にミートソースがかかっているのだが、なかなかどうしてイケます。
でも寝不足の体なんでちょっち胸やけ。
そうこうしているうちに5:58の宇奈月行きの始発が来て乗り込む。
朝の冷え込みがかなり厳しく、電車内でも凍える。
予定通り6:38に宇奈月温泉に到着。


↓普通にコンビニでイタリアン焼きそばゲット


宇奈月温泉行き始発に乗りこむ


富山地方鉄道の終着駅・宇奈月温泉駅


到着して駅を出ると相当寒い。
とりあえずここからすぐの黒部峡谷鉄道の駅へ移動する。
駅は早朝から現場へ向かう作業員たちでごった返している。
観光用の便以外に、作業員用の便が次々と人を乗せて山奥へと向かっていく。
さて、自分はと言うと、ここで1時間ほど余裕がある。
このトロッコは完全予約制でツアーで予約されている便は7:52。
そこでそれまで宇奈月を散策することに。
温泉街に行っても店は閉まっているので、
ここから1kmほど歩いたところにある宇奈月ダムを目指す。


黒部峡谷鉄道宇奈月駅(終着駅)


↓早朝から山奥の現場に向かう作業員でごったがえし


↓下の廊下情報。今シーズンは終了


宇奈月の山々は紅葉まっただ中でなんとも素晴らしい。
駅を出て歩いているとすぐに、真っ赤な橋脚が見事な山彦橋が姿を現す。
背景にそびえる山々はすっかり色づいて山のにぎわいが素晴らしい。
橋を渡るとぽっかりと隧道が口をあけている。
天井からポタポタと冷たい水が滴り落ちてくる中を抜けます。
こんなのは今日行く現場に比べたらまだだま序の口。
宇奈月駅から15分ほどで宇奈月ダムに到着。
ここは黒部川水系のなかでも一番最近にできたダムで、
一部発電もするが、利水が主目的。
ダムのさらに奥に広がる山々の上の方はうっすらと雪化粧。どうりで寒い。
駄目元で管理事務所のインターホンを鳴らしてみる。
本来は9時開館の見学施設でないと配っていないらしいのだが、
係りの人が気を利かせてくれて無事にダムカードゲット。
ここから先へ進むとトロッコの時間に間に合わないので、引き返しつつ、
橋のところでトロッコが来るシャッターチャンスを狙いながらバシバシ写真を撮る。
10分前に駅に戻ると同じく関電ツアーの人たちが集まってきていた。


↓山彦橋


↓ダムへ続く隧道


宇奈月ダム


↓山彦橋をゆくトロッコ


↓黒部水系で一番新しいダムで、発電目的ではなく利水ダム


さあいよいよ7:52のトロッコに乗って終点・欅平まで1時間ちょっとの旅路。
見所は主に進行方向向かって右側に集まっているので、
座席はそちら側を指定しましょう。
富山出身の室井茂のアナウンスで見所の紹介を聞きつつ、
どんどん山奥へ向かっていきます。
これだけでも十分楽しくて貴重なアトラクションです。
ここまでは誰でも行くことができるので、
興味のある方はぜひ現地へ足を運んでみてください。
黒部開発の最初期の歩みが垣間見れます。
ということで、この辺りの見所紹介はサクッと割愛するとして、1つだけ紹介。
ロッコの軌道に沿った山肌に半ば埋もれるようにコンクリートで固められた
穴ぐらが続いています。
これは冬季歩道と言って、高さは大人の男性が中腰くらいしかない真っ暗なトンネルです。
御存じのとおり、この黒部川流域は豪雪地帯で、すさまじい雪崩の巣なので、
冬の間、それらの被害を予防するため、トロッコは軌道から架線からすべて撤去されます。
(ちなみにその撤去費用なんと1億!そして再び設置するのに1億かかるらしい)
その期間でも当然山奥のダムや発電所などの施設は稼働しているわけで、
作業員たちは、宇奈月からこの真っ暗な道をヘッデンを点灯させながら歩いて通勤するわけです。
その距離約20km、6時間の通勤。すさまじい現場です…。


欅平まで20kmある冬季歩道


↓冬季歩道の内部(欅平駅にある歩道入り口で撮影)


↓見上げると山上は雪化粧


↓猫又の黒部川第二発電所発電所本体は山中で見えない)


黒部川に沿ってどんどん山奥へ


さてトロッコは無事に9:12欅平駅に到着。
この辺りまで来ると冷え込みはかなりで、気温も2ケタを切っています。
あわただしく写真をバシバシ撮ると、
関電ツアーの集合場所となっている駅舎の2Fの食堂に上がる。
30,40人ほどが集まっていました。
まずは身分証を提示し、セキュリティーチェックを受け、簡単なレクチャーがあります。
ここ欅平駅から工事用トロッコに乗って500m先の隧道内にある竪抗エレベーター下部まで、
そこから竪穴エレベーターで一気に200mの垂直の旅。
そこから上部専用鉄道を使って7kmの隧道を進む。
その間にはあの高熱隧道が待ち構えます。
仙人谷の山の地中にある黒部第4発電所を見学ののち、
インクラインで20分かけて500m近く高度を稼ぎ標高1325m地点へ。
そして作廊から10kmの水平な隧道をバスで黒部ダムまで。
全長26km、標高差870m、約3時間半の行程です。
その道中は全て写真取り放題。撮影禁止はないようです。
それでは安全帽をかぶっていざツアーに出発!


欅平駅。駅下に黒部川第三発電所


↓終着駅の欅平駅


↓関電ツアーの集合場所(富山側)は駅2階の食堂


↓ツアー前のレクチャー


欅平。ここから奥、黒部の核心部へいざ!


まずは欅平駅から工事用トロッコに乗ります。
ここからは関係者以外立ち入り禁止区域なので、一般観光客は入れません。
が、当然平日でもあるので工事用の作業員さんたちは普通に仕事をしているので
邪魔にならないように気をつけます。
欅平駅を出るとすぐに目の前の山の中に突入します。
軌道は発電所へと引き込まれていく一本へと枝分かれをしつつ、山の奥深くへと潜り込みます。
竪坑エレベーター下部駅にはスイッチバック方式で入線します。
というのはもちろん狭い坑道で十分なスペースが得られないということと、
ロッコの前部が人を載せる貨車で、その後ろに荷物を載せる貨車が連結されていて、
その貨物用貨車がスムーズに切り離しができるように、お尻から駅に入る必要があるからです。
今回の場合も、ここから奥にある宿舎にあらゆる補給物資を載せたオレンジの貨車も
自分たちと一緒に奥まで行動を共にします。


↓坑内にて


↓トロッコの終点


で、竪坑エレベーターに乗り込みます。
ここは人道用の小さなBOXと貨物用の大きなBOXの2つのエレベーターが稼働しています。
今回は人数も多いので貨物用のものを使って上がります。
さっき書いたように貨物用にはトロッコに連結されていた貨車が載るため、
レールが床についています。
30人ほどのツアー客が乗るともうそれでいっぱいいっぱい。
当然ですが、これらの設備・乗り物はすべて工事作業用に造られているので、
観光用に快適にはできていません。
とはいえ、実際ダム工事などで必要な機材を考えると小さいと言えるでしょう。
この区間は山の傾斜が急峻で、エレベーターで垂直に移動する手段しか使えなかったようで
このサイズに収まりきらない機材の運びあげの際には、
細かいパーツに分解したり、あるいは切断したりして苦労して運んだようです。
このエレベーターで200mを約2分ほどでびゅんと上がります。あっと言う間。


↓竪坑エレベーターで一気に500m上がる


↓竪坑エレベーターの内部。昭和11年建設。


↓食糧などを運ぶ貨車も積み込み可能


↓竪坑上部。標高800m


竪坑エレベーターで約2分で標高800mの上部駅に到着します。
ここで一旦、エレベーターの裏側に外へ出る僅かのテラスがあるというのでそちらへ寄り道。
で、穴ぐらからずりずりはい出すと、
そこは切り立った山のヘリに設けられた本当に狭い展望所になっており、
対岸には祖母谷・祖父谷の紅葉が見事な山々、そしてその奥
薄雲にかすむ後ろ立山連峰の高い峰々が白い衣装をまとってそびえ立っていた。
ものすごいところだ。
こんなところで越冬しつつ、ひたすらトンネルを掘るなんて、想像を絶します。
ちなみに水平歩道はこの照らすよりもさらに上部の山肌を行っているそうです。
そんなとこホンマに歩けるんかい…
でも、当時の人夫はでっかい丸太や資材を担いで、雪や雨の中行き来していたのだからすごい。
「黒部に怪我はない」という言葉があるように、まさしく一歩踏み外せば死が訪れるところ。
あまりのスケールのでかさに言葉もありません。
ちょうど前方にどーんと構えている山が奥鐘山。
今は紅葉できれいな姿をしていますが、この山には恐ろしすぎるエピソードがあります。


↓竪坑そばにある展望所より


後立山連峰は雪化粧。


下の写真が奥鐘山の南斜面をズームしたものですが、山の中腹が黒く禿げています。
これは黒三工事のすさまじさを後世に伝える傷跡なのです。
この山の対岸、この写真では切れていますが写真の右手に志合谷というわずか平地があって、
黒三工事の際には、そこに4階建ての鉄筋コンクリートの宿舎が設けられていました。
万一雪崩が発生したとしても、流されるのを防ぐために
戦中当時としては最高水準で頑丈に強固に建てられたまさに鉄の要塞でした。
しかし、1938年12月27日、普通の雪崩ではないホウ(泡)雪崩がこの宿舎を直撃します。
ホウ雪崩とは、通常の雪崩のように雪塊が落下するものではなく、
内部に空気を多量に含んだ新雪が時速200kmの速度で一気に山を駆け下りるため、
数百キロパスカルもの強大な破壊力で雪崩の進路にあるものを破壊する恐ろしいものです。
それが深夜に就寝していた100人近い作業員たちがいる宿舎の3,4階部分を
まるで刃物ですぱっと切ったような形で飲みこみ、
そのまま小さな山を越えて対岸600m先にあるこの奥鐘山の山肌に叩きつけたのでした。
写真の黒々とした山肌はその跡です。
鉄筋コンクリートの建物を浮かび上がらせて、
それを1km先までぶっ飛ばしてしまうほどの破壊力。
そのすさまじさは全く想像できません…。
事故発生当時、深夜作業から戻った作業員たちはあるはずの宿舎がないことに驚愕し、
至急応援を呼んで、宿舎があった辺りを必死で雪をかいて捜索したそうです。
が、いくら掘っても遺体の1つどころか、宿舎の残骸すら発見することができませんでした。
まさに忽然と姿を消してしまったのです。
その後数カ月捜索しても、宿舎とそこにいたはずの作業員の行方はわからないという状況。
雪解けの季節となり、下流ダム湖に一体の死体が流れ着きます。
調べてみるとそれは宿舎にいたはずの作業員でした。
そこで捜査範囲を拡大して捜索に当たったところ、対岸の奥鐘山の山上の木々が、
途中でスパっと人工的に切り取られているのが発見されます。
そこでその方向に捜索の足を進めて見ると、なんとその山の中腹の岩肌に、
かつて宿舎であったであろうコンクリートと鉄の塊がベチャっとへばりつき、
そのまま凍りついているのが発見されたのでした。
それが雪解けの季節となり中でバラバラになった遺体が
一体また一体と宿舎から黒部川へと落下し、それが次々と下流へ流れ着いたというわけです。
この事故によって84名の死者をだし、
そのうち47名は死体の腐敗がひどく身元確認ができなかったそうです…。
これは全て実話です。興味のある方はぜひ『高熱隧道』を読んでみてください。
事故当日、交代でこの宿舎で寝る予定だったのが、直前で仲間から交代を頼まれて
深夜工事に狩りだされて、命拾いをしたという方がまだ富山で御存命だそうで、
一度お話を聞いてみたいような、みたくないような。
そんな現場を目の当たりにして、もう言葉が見当たりません…。


↓奥鐘山。600m先の対岸から飛ばされた宿舎が写真中央の岩肌に衝突しへばりついたという


さてテラスを後にして、さらに山の奥へと進みます。
竪穴エレベーター上部駅から上部専用鉄道に乗り込みます。
ここからは耐熱シールドを表面に施した装甲車みたいな軌道に乗り込み、
6.5kmを30分ほどかけて阿曽原から仙人谷まで水平にトンネルを突っ切ります。
ここからが黒三工事最大の難所であった、高熱隧道といわれる地帯である。
本坑工事開始当初から岩盤温度が65℃を越え、
その熱は掘り進めるほど上昇していく異常な地熱地帯。
そこで、対策として黒部川から雪解けの冷たい水を引き、
切端で作業する人夫の後方から水掛け係が絶え間なく水を浴びせかけ、
その水掛け係に向かって、さらに後方の水掛け係が水を浴びせるといった努力がなされたが、
密閉空間で上昇し続ける地熱の前には、まさに焼け石に水
水は岩盤に触れた途端に蒸発し、その蒸気が坑内に立ち込め、その光景はまさに地獄絵図。
作業員たちは熱に意識を失い、体全体がひどい火傷を追い、工事は難航を極めました。
それでも岩盤温度は上昇を続け、しまいには170℃まで上昇するまでに至ります。
170℃といえば、コロッケなんぞをじっくりこんがり揚げる温度ですよ。
そんな過酷なところでひたすら穴を掘るわけです…
当時、トンネルを掘る方法は、切羽と呼ばれる穴の先端の岩盤に細かい穴をいくつも明け、
その間にダイナマイトを差し込んで、それを導火線で火をつけて爆破し、
崩れた土砂(ズリ)を後方にあるトロッコに積んで坑外へ掻きだすという作業でした。
が、これだけの高温になると、ダイナマイトが自然発火するという
非常に深刻なアクシデントが発生します。
当時、ダイナマイトの使用制限は50℃以下の環境と定められていたところ、
優にその倍以上もの熱現場で作業していたわけですから、当然と言えば当然です。
切羽の穴にダイナマイトを突っ込んでいる最中に爆破が起こり、
逃げる間もなく作業員たちの体は粉々に四散し、
周囲の岩盤に肉片や血痕がへばりついたといわれています。
あるいは、無事に爆破を終え、その残骸であるズリをかき出している最中に、
不発で残っていたダイナマイトがいきなり自然爆発し散って逝った人もいるといいます。
切羽での作業はまさに自殺行為、神風特攻と同じでした。
それでも逼迫する電力不足、戦争へと突き進んだ時代性等々から、
国家の命運を握る一大プロジェクトとしてトンネル掘削工事は遂行されていきます。
世界的にも、また歴史的にも類を見ない難工事、
まさに人柱という言葉が浮かびます。


そこをシールド車で進みます。関電のガイドのおっちゃんが気を利かせて、
装甲車のドアを開けてくれます。
硫黄の匂いが立ち込め、ほのかに温かな風が吹いてきます。
現在は、この軌道の下に2本の水を流すトンネルが通っているので、
この高熱隧道自体が当時のように170℃まで温度が上昇することはないそうで、
当日は初雪で気温が下がった加減で、そこまで熱いというほどでもありませんでした。
でもメンテナンス等でその水を止めると途端に蒸気が坑道全体を覆うほど地熱が上がるそうです。
こんなところを満足な装備もなしに、手堀りでよくもまあ…
地獄としか言いようがない。


↓この先がいわゆる高熱隧道。岩盤温度が摂氏160度の地獄


↓シールド車に乗っていざ高熱隧道へ。上部専用鉄道は昭和14年建設。


↓高熱隧道走行中


↓硫黄のにおいがして温かい


30分ほどすると、突然トンネルから飛び出て、
峡谷の真上に設けられた仙人谷駅に到着です。
こはちょうど黒部開発の境界に当たる地点で、
これより手前が黒三、これ以降が黒四の開発期となり、
その間には20年ほどのブランクがあって、その間の技術革新の差などもわかります。
ちなみにここで下の廊下と交差しますが、このダムより下流は日電歩道、
ここから上流は水平歩道という名称になり、全体を称して下の廊下と言います。
駅からは向かって右手には仙人谷ダムが、
奥に広がる黒部の秘境の山まとヒケを取らない威厳をもってどーんとそびえています。
欅平にある黒部第3発電所で発電をするために建設されたダムです。
壮絶な歴史と犠牲を背負っているだけあって、すさまじい存在感。
これほど不気味なオーラを放つダムは見たことがない。


↓仙人谷にて。


↓仙人谷の回廊


↓向かって左手は紅葉が見事。写真左奥は水平歩道


仙人谷ダム


立山連峰の初雪


一旦外気を吸って、再び装甲車に乗り再び山の中へもぐりこむ。
しばらく走ると広い広い坑道に到着します。
ここが上部専用鉄道の終着駅である黒部川第4発電所前です。
標高は869mなので、竪坑エレベーター上部からわずかに70mほどしか上っていません。
駅の正面には立派な玄関口があります。
まるで大阪のオフィス街にある立派なビルヂングに来たようです。
こんな山奥にこんな立派な建物があるとは!しかしここは実際は山の中です。
冬の雪崩やその他のアクシデントの被害を受けないため、
またこの山全体が国立公園に指定されていて開発が制限されている等々の理由から、
山をくりぬいて、その中に4階建てのビルを建ててあります。なんというスケール。
ここが黒部開発のまさに核心部、ここで実際に電気が作られ、
全長350kmもの送電線を経て、高槻にある北大阪変電所まで送電されているのです。
ここの会議室で、黒四開発の歴史の簡単なレクチャーがあります。


↓黒四発電所前に到着。


↓黒四発電所入り口。昭和38年建設。


↓こんな山奥の地中に立派なビルが!


レクチャーののち、実際に発電している現場へと案内されます。
ここでは4基の発電機が稼働して約33万キロワット(建設当時は26万キロワット)もの
発電をしています。発電能力としては日本第4位。
現在となっては、関電全体のわずか1%程度の発電量でしかありませんが、
当時としては、滋賀県奈良県の年間の全電力を賄えるだけの発電量を誇り、
関西電力にとっても当発電所の建設は長年の非願でした。
これについては『黒部の太陽』やプロジェクトXなどで知っている方も多いと思います。
発電の仕組みとしては、建物の最下層に鋼鉄製のペルトン水車が設置されていて、
そのペルトン水車の窪みに、ダムから取水した水を高圧で当てて回転させ、
その上の階にあるタービンを高速回転させることによって発電します。
普段は回っているようなのですが、今年は雨が少ないシーズンで、
かつ原発問題による電力不足を解消するため、ひっきりなしで発電をしていたため、
黒四ダムの貯水が深刻に減ってしまったため、当日は休眠状態でした。
そのかわり普段は絶対に触れないタービンに触れることができました。
水力発電の利点は、火力や原子力と違って廃棄物を一切出さないことがあります。
またダムに水をためるだけなので、余計なコストも発生しない。
また火力や原子力が一度稼働を止めると、再開するのに莫大な費用と時間がかかる一方で、
水力の場合は取水口の開け閉めだけですぐに稼働したり中断したり調整が可能という点だそう。
そういう意味で黒四はまだまだ現役で発電を続けています。


↓ここが発電室。4基搭載


↓このでっかい水車の窪みに水を高圧で当てる


↓このタービンが回ることで発電する


さて、しばらく発電所に滞在ののち、黒四ダムを目指して進みます。
ビルから出て、上部専用鉄道の駅の先へ行くと、
インクラインと呼ばれるケーブルカーが待機しています。
インクラインとケーブルカーの違いはと言うと、管轄行政の違いだけです(笑)
インクラインは貨物用なので経済産業省、ケーブルは旅客なので国土交通省
まあ保育園と児童所の違いみたいなもので、中身はほとんど一緒です。
この斜めに掘られた坑道がまたどえらいすごい。
覗き込むと本当に今からここ進んでいくのかと身が縮まる。
斜度としては34度勾配で、一気に500mの高度を稼ぎます。
まるでガンダムエヴァでも発進しそうな感じ。
「カタパルト!ハッチ開け!」ってか。
発射?の時間となり、小型の宇宙船のようなBOXに乗りこみます。
それがゆっくりゆっくり時速8km程度で斜面を上っていきます。
下を覗き込むとかなりソワソワする。
中間地点で上からやってきた対向便とすれ違います。
そこには黒部ダム側からの関電ツアー客が乗っていてお互いに手を振りあってすれ違い。
で、無事にインクライン上部駅に到着。


インクライン。昭和34年建設。


↓斜度36度を20分かけて上る


ガンダムエヴァでも発進しそう


この場所は作廊という場所で黒四開発の起点の一つでした。
そこから10km水平にくりぬかれたトンネルを黒四ダムまで進みます。
このトンネルは工期短縮のため、両側から迎え掘りをしてつなげたものですが
10km掘り進めていざ貫通となったときの誤差が、わずかに4cm!
日本の技術の精密さがいかに優れているかということが実感できます。
途中、掘削時に出る土(ズリ)を排出したり、
坑内の空気を入れ替えるための横穴がいくつかあります。
ツアーでは途中でバスを降りて、その1つから坑外を眺めることができました。
すると、ちょうど初雪だったようでもうこの辺りは一面の白い世界でした。
ツアーの興奮で凍えそうな気温も気にせず参加者はみなバシバシと写真を撮っていました。
ここからは、珍しい裏剱が見えるらしいのですが、天候がよくなく、山頂までは拝めず。
ただ先日国内初の氷河として認定された三ノ窓雪渓がちらっとですが見えました。
なんともすさまじいところです。
下の廊下は遥か山の下を通っているらしく、いつか行ってみたいとかねがね考えてましたが
ちょっとおじけづきました。
10分ほどの滞在ののち、再びバスに乗り込み、揺られること30分ほどで関電トンネルと合流。
観光客でごった返す黒部ダムに到着。
ここで無事にツアー終了。お疲れ様でした。
いやいや素晴らしい体験をさせてもらいました。
黒部の電力開発はまさしく日本の発展の礎であり、
その現場を踏むことは人生の上で大きな財産となると思います。
興味のある方はぜひ抽選をくぐりぬけて行って見ていただきたい。
自分も機会があればまたぜひ訪れたいです。
今回は開発の歩みに沿って富山側から抜けてきたが次は逆方向で。


↓いきなりの雪景色


↓かすかに裏剱の山肌が見える


↓作廊から黒部ダムまで続く10kmの黒部トンネル。昭和34年建設。


トロリーバス乗り場に到達。関電トンネルは昭和38年建設。


さて、終点の黒部ダムです。本当なら翌日から連休だし、
ゆっくりじっくりアルペンルートを堪能しつつ帰りたいところであるが、
そんなどころではなく、黒部ダム自体も満足に見れる時間すらない。
なんせ本日中には帰宅して、すぐに東京へ目指さねばならないのだから。
まあここは何度か訪れているし、これからも来るだろうからとぐっと我慢。
12:45にツアー終了で、13:35のトロリーバス扇沢まで行かねばならない。
この50分の間に大忙しでミッションを遂行する。
まずは慰霊碑の前で記念撮影。
彼らの犠牲がなければこの大事業はなしえなかった。彼らこそ讃えるべきヒーローなのだ。
それから、こんだけ雪被っている黒部ダムは見たことがないのでダムの周辺をバチバチ写真を撮る。
なんかいつもの取材のような忙しさ。
それからレストハウス売店ダムカードをゲット。
やはりここのダムカードなくしては語れんでしょうということで無事ゲットです。
それから同じ売店でダムカレーをいただく。
ちなみにダムカレーの発祥と言われているのはレストラン扇沢のアーチカレーで
昭和40年ごろから続いているメニューです。
で、食券買って、呼ばれて取りに行ったらビックリ!なんとグリーンカレーです。
山深い緑が黒部ダムの湖畔に写る様を表しているのでしょうか?
カレー自体はまあまあだけど、カツとルーの相性はあんまりよくないっす。
飲みこむように食してのちは、家族のために土産を物色。
と、財布を覗き込むと、なんかちょっとヤバくない?5000円ほどしかない…
というかヘタに土産を買いこむと下山も怪しい?
カードは持ってきてはいるがこんな山奥で使えるはずもないし。
かといって手ぶらでは悔しいし。
ということで時間も限られる中、まずはトロリーバスのチケット売り場まで走り、
バスの乗車券をゲット。1500円…今の自分には高ケ〜。
そして扇沢から室堂までの料金を確認すると1300円。ざっと3000円は最低必要経費である。
そこから売店へ取って返し、ここから緻密な計算。手に汗握る攻防戦である。
本当は無駄にダムカレーTシャツがほしかったのだが、
そんなものに手を出したら扇沢から徒歩で下山なので断腸の思いで断念。
結局、娘にはトロッコのおもちゃ、奥さんには恒例の手ぬぐい、自分には山バッヂ。
で、残り現ナマ900円。お札なしで現在地が黒部ダムという無駄にサバイバル。
こんなんじゃそもそもアルペンルートなんか行こうものならどうなっていたか…
いつも何かと無駄に崖っぷちでございます。
しかし、なんとか時間内にミッションは全クリ。ふぃ〜。また来るゼ。


黒部ダム


↓改めてデカイ


↓ダム工事に散った人々を祀る慰霊碑にて


黒部ダムカレー。なんとグリーンカレーでした。


ということで、ある意味命からがらトロリーバスに乗り込む。
一応出発間際のわずかな時間で下の廊下への出口だけは確認。まあ行くかどうかは別として。
で、いざ関電トンネルを扇沢まで疾走。
途中ブルーのライトが光っているところが、
黒部の太陽』でも描かれた最大の難所であった破砕帯と呼ばれる区間
この区間は地盤の脆い地層の亀裂で、ここから大量の雪解け水が噴き出し、
黒四工事の前に大きく立ちはだかったのでした。
トロリーバスは20分ほどでトンネルを抜け、予定通り13:51に扇沢駅に到着。
扇沢はそこそこ強い吹雪で、すぐ上にある針ノ木岳や赤沢岳もほとんど見通せないほど。
それにしても寒すぎる〜@@
ここではほとんど時間もなく、信濃大町行きの路線バスにすぐに乗り込む。
14時にバスは出発し、徐々に高度を落としながら駅を目指す。
高度が下がるにつれ、吹雪は止み、見事な紅葉が車窓を楽しませてくれる。
ちょっとの標高差なのに全然違う世界が不思議というか、おもしろい。
30分ほどでJR信濃大町駅に到着。


↓破砕帯突破!


↓赤沢岳・針ノ木岳は吹雪


まずは帰りの電車の手配です。
15:06のあずさ号で松本へ、そこでしなの号に乗り換えて一路名古屋。
そこから新幹線で新大阪着が19:05。これなら東京行きの前に4時間以上ゆとりがある。
それに仮眠は電車の中でも可能だし、これで翌日からのプランにメドがたった(はずであった)。
待合所で時間を過ごすのだが、その中にある立ち食いそば屋の香りの誘惑に負けて
新そばのかけ300円をいただく。やはり名物だけあって、立ち食いなれど麺が違う。ウマシ。
所持金残り600円だが、こんなものでは何かあっても何も出来るわけでなし、
食事はダムカレーとそばを食べて問題ないし、水もあるので、
このなけなしで家への土産でライチョウの里の一番小さい奴を買う。
あとはもうどうなっても知りませんぜ。
時刻通り特急が入線し乗りこむ。
西日がとても眩しいくらいで、常念山脈がきれいなシルエットを見せて、
飽きることなくずっと眺めていた。また来っからな!


信濃大町駅は快晴


常念山脈がキレイ


松本でしなの号に乗り換え、そこから終点名古屋まではとにかく仮眠仮眠。
で、気付いたら電車が全く動いていない。
アナウンスによればこの先の多治見駅接触事故があったようで立ち往生しているよう。
うむ〜、昨日あれだけ遅延しておいての追いうちなので、そらあ気分が悪い。
といってできることもないし、車掌はほとんどアナウンスもせずほったらかしなので
とにかく仮眠する。
結局、そのまま1時間30分ほどしてようやく動き出す。
何のために早い便に間に合わせたのか…
その後少しは遅れを取り戻したかに見えたが、
前の便の特急がまだ発車できずにホームに居座っているために名古屋駅直前、
もう駅が見えているというところで再び長い長い停車。
もうちょっとがんばってとにかくホームに降ろしてくれれば乗り換えできるのに!
というはがゆさが車内に充満して殺気立っている。そらそうだ。
それから煮え立つような気持をおさめて新幹線に乗り換えて、新大阪まで立ち…
帰宅は結局22時。帰宅してから飯を買って食べてたらあっという間に出発時間…
もう無理…と布団に退散…zzzzzz…