記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『悪の法則』 by R・スコット

不自由なく平穏な生活をしていた弁護士カップル。
ある時、ほんの出来心で悪事に手を染めたことから、
破滅への道を転がり続けることになる。
たった1つの選択によって、それまで輝きを放っていた世界が反転し、
それまで自分の目には見えていなかったが、確かに存在していた
悪に染まりきった残酷な世界がのっそりと立ち上がるのである。
それは決して、”奴ら”が無理矢理に彼らを引きずり込んだのではない。
彼らが自らの選択によって”奴ら”を招き入れたのだ。


それはまさに血と暴力の世界。
そこには慈悲も情も神の救いさえも存在せず、
はした金とsexと薬のために簡単に人が死んでゆく。
”奴ら”は、人を殺すことについて深く考えたり、躊躇したりはしない。
まるで獣がその場の空腹を満たすために獲物をハンティングするのと同じように
あくまでそれは自然の行為、ただ生きることとイコールだからだ。
生きることに深い意味はないからこそ、死すらも無意味。
ただ狩るか・狩られるかの暇つぶしのゲームでしかない。
相手を仕留められなければ、自分が仕留められる、ただそれだけの簡単なルール。
そのような世界では、
思い付き的に降って沸いた欲望に突き動かされ、
甘い誘惑に乗ってノコノコと潜り込んできた者に容赦なくその代償を支払わせ、
生まれながらにハンティングの習性をもった者だけが生き残る。
そういう世界に彼らは自ら望んで進んでいったのだ。


悲しみほど価値のないものはない。
後悔ほど無意味なものはない。
振り返ってみたところで、動き始めた歯車を逆戻しにはできない。
自らの人生の選択の余地はもうずっと以前にあったのだ。
いつだって自らが招き入れた運命から逃れることはできない。
今となってはもう、ただ現実を素直に受け入れ罪を償うことしかできない。
選択と運命、その代償と結末。
この無慈悲なほどの観念論は、
C・マッカーシーの全作品の根底に流れている不変的なテーマであり、
コーエン兄弟の『ノーカントリー』と姉妹作品ともいえる。


豪華キャストが勢ぞろいをしているからといって、
いわゆるハリウッド超大作のようなエンターテイメント性を求めていくと
正直肩透かしを食らう。
この映画はあくまでC・マッカーシーの世界であり、
クライムサスペンス映画というよりもむしろ、哲学論的志向が強い。
しかしR・スコット映画に共通する世界観の奥行きの深さと、連続する緊張感はさすが。
乾燥した荒野にピンと張られた鉄のワイヤーの不快な音がスクリーンを支配する。
演者は皆存在感バリバリで、この組み合わせ以外に選択肢がないように思える。
なかでもC・ディアスの突き刺すようなハンターのまなざしと、
何と言っても捨て身の演技!
邦題は陳腐でヘタクソ。


悪の法則

悪の法則