記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

対案とは?

人の一生についても、あるいは国のあり様についても、
不可逆的な時間の流れの中に存在している
ほとんどすべての事象についてあてはまることだが、
今、現状繰り広げられていること、事柄、状態というものは、
何も成り行きで事が進んでしまったという結果でもなく、
まして突然降って湧いてこのようになっているということではない。
今、この状態であるということは、
それ以前にすでに幾多の選択、判断、決定が繰り広げられた
取捨選択の上に成り立っている。


人間はどうしても今、そして未来に向かって生きているので、
すでに過去に下された重要な判断、選択については
自明のこととして脇へ置き去りにしてしまいがちであるが、
今この状態というのは、自然発生的なものではなく、
自分が自分でチョイスしてきた結果に過ぎないということは極めて重要だ。
その分、”今”という状態は極めて強い状態ではあるのだが、
それは決して、絶対的なものではなく、常に批判と反省にさらされる。
”今”に対して、不満がある、改善すべき点がある、
あるいは経年変化に対応する必要があるとすれば、
それに対しては問題提起を投げかけることになるのだが、
その問題提起自体、すでに「”今”に対する対案」なのだ。
すでに幾多の選択・判断が下されたという意味で
尊い存在である”今”に対しては
十分な敬意をもって応じなければならない。
なぜなら”今”はあなたが間違いなく過去に選択した結果なのだから。
また、”今”に対してノーを突きつけるということであるから、
それなりにもっともな説明と、説得力がなくてはならない。
”今”を覆すということは、つまり、
”今”以前から脈々と続く幾多の過程を含めて覆すということであるからだ。
少なくとも過去にすでに行われた膨大な議論と同等か
それ以上の内容がなければならないのは当然のことだ。


結局のところ”今”に対して我々がもてる選択肢はイエスかノーかの2択しかない。
ノーということに対する対案は現状を肯定するということでしか応えられない。
何か声高に主張を初めて、いざそれが否決されたとして、
すぐに「対案を出せ」というような人間は全くもって信用ならない。
なぜなら、そういう人間は、
そもそもこの”今”がどのようにして構築されているのかということを理解しない。
それは極めて短絡的なやりかたであると同時にロジックの崩壊である。
自らがすでに”今”に対する対案であるということす気づかずに、
自分の主張に盲目的になって
「じゃあ対案を出せ」というのは完全に言論の暴力でしかない。
”今”というのはそれまでの無数のイエスとノーの攻防の末に
成り立っているものであり、選択はすでに行われているのだから。
重要な選択・決定というものはえてして、岐路にいる今ではなく、
ずっと以前に行われていることのほうがずっと多い。
そのことを忘れてはならない。
ただし、その”今”を覆すことができるのもまた、
新しい選択、判断、決定、その繰り返しなのだということもまた真理である。


現代アメリカ文学の巨匠であり、
ザ・ロード 』でピュリッツァー賞を受賞した作家、コーマック・マッカーシー
その観念論的なロジックを見事に美しい物語に昇華させている。
選択と運命、その代償と結末。
何人も自らが歩んできた道のりについて、
後悔や懺悔の念を感じることはできても拒絶することは決してできない。
他のどの道とも違うただ1本の道は、
無数の分岐点、可能性、選択肢の中から自らが選び出した運命であり、
現在も未来もその延長上にしか存在しない。
すなわち、どのようなささいな選択も、もっと大きな俯瞰の視点で見れば、
重要な岐路になりうるということだ。


「自分が置かれた状況の真実を知るべきだ。
犯した過ちを取り消そうとする世界は、過ちを犯した世界とはもはや違う。
今、あなたは岐路にいて道を選びたいと思っているだろう。
だが、選択はできない。ただ受け入れるだけ。
選択はずっと前に行われたのだ」
(『悪の法則』より)


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すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫)

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