『アルピニズムと死』 by 山野井泰史
かつて「天国に一番近い男」と称された世界的クライマー・山野井靖史。
難攻不落の岩壁への困難なチャレンジの数々、
生死をさまよったギャチュンカンでの雪崩からの脱出行、
そして自宅の裏山での熊との遭遇etc、
幾度も決定的な危機にさらされながらなぜ彼は生還できたのか。
そしてそれほどの壮絶な体験を経てもなお、なぜ彼は山に登り続けるのか。
直近の山のパートナーであった野田賢の死を契機として、
山への想いを再び振り返った一冊。
アルピニズムと死 僕が登り続けてこられた理由 YS001 (ヤマケイ新書)
- 作者: 山野井泰史
- 出版社/メーカー: 山と渓谷社
- 発売日: 2014/10/24
- メディア: 新書
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タイトルは編集者がつけたそうでちょっと重たすぎるかなとご本人談。
自分にとってはとても大切な金言ばかりです。
日常生活から一線を越えたところにこそ、
真の冒険が存在する(危険を伴うということではなく、非日常を感じられるという意味で)。
そしてその冒険に人を駆り立てるもの、
そして同時にその冒険を無事に完結させるものは、
何と言っても”好き”という純粋かつ単純な心の持ちよう。
しかし、人に強いられることなく、人に左右されることなく、
ましてや人の物差しに乗っかることなく、
まっすぐに己が導き出した道を信じて進むには強さを備える必要がある。
人にうつつをぬかしてばかりの人は所詮その覚悟のない弱い人間である。
人まかせ(あるいは道具任せ)にせず、
自分で動く人間には判断力が備わる、想像力が働く。
次の一手を想像すること、自らの道を選択すること、
それこそが人生における最大の面白さである。
登山とはそれらのことがぎゅっと凝縮されたイマジネーションの営みなのだ。
以下は忘備録。
p98:「体力、技術、バランス感覚、判断能力などの能力が目的に適していて、
また、心から興味のある対象に向かわなければ、進退極まってしまうのです」
p124:「以前は面白く感じていた分野に苦痛を感じてしまう瞬間が現われたのです。
僕は決して我慢してまで登りたくないのです。」
p132:「僕は困難を好み、何度もそれを克服してきました。
しかし吹雪の一ノ倉沢へ出かけるような、
危険な領域には踏み込まないように注意してきたのです。
破天荒の格好よさを少しは理解できますが、
胸の奥に見え隠れする狂的な熱を抑えながら、計算高く慎重に山を選び、
状況を見極めてきたのです。
惚れ惚れするくらい美しい山、誰も到達していない頂、
自分を勇気づけさせてくれそうな山々へ、
能力の限界を超えないように計画し、また実践してきたのです。
限界のように思えていた一線を越えた瞬間は表現できないほどの喜びがありますが、
大幅に限界を超えてまで生還できる甘い世界でないことを知っているつもりです。」
p163:「(アルパインスタイルと極地法)
どちらかのスタイルに優劣をつけるのは難しい。
また、どちらが安全かは僕には判断できない。でも僕には想像できる。
何百キロという装備を荷揚げするために何度も往復していたら飽きてしまうかもしれない。
また、クレバスだらけの氷河や、雪崩の起きそうな雪深い尾根を
2度も3度も通過していたら、精神的に耐えられないだろうと。
次に展開されるだろう風景にいつも期待感を持っているクライマーでありたい。
山が次々に出題するパズルを素早く解決できるクライマーでありたい。」
p167:「目の前のボルダラーは皆、輝き、エネルギーに満ち溢れている。
でもその賑やかな光景は、僕が小さいころから苦手だった運動会を思い出させ、
自然に距離を取ってしまう。
彼らは競争意識が生まれ、上達も早いのかもしれない。
皆で力を合わせる喜びがあるのかもしれない。でもあの日、
最後まで御岳のその石にトライする人の輪に入ることができなかったのだ。
僕はうまくなるのが遅くなったとしても、情報が早く手に入らなくても、
小さな石でもいいから一人で対峙し取り組んでいたい人間だった。
ゆっくりと吸収する……。これも重要なことの一つかもしれない。
やっぱり一人が向いているのかもしれないと、
上高地の賑やかな小屋の中でぼんやりと思っていた。」
p171:「山登りはとても不思議で難しいゲームだ。
多少危なっかしい方が面白い場合が多く、
完璧な安全を求めるあまり、つまらなくする場合もある。
確実な天気予報を得られ、救助を要請できる携帯電話
位置を確認できるGPSなどを含め、山登りを面白くするため、
あるいは山の中だけでも賢いクライマーを保つために、
あえて手放しているものも多い。(中略)
ヒマラヤの8000m峰でも、登頂率を高めるため衛星電話を使い、
正確な天候、気温、風速風向などの情報を集めるらしい。
しかし僕は違うスタイルを選びたい。
たとえ登頂に失敗したとしても、氷河に寝転んで気温の変動を肌で感じながら、
稜線の風や雲の動きを観察して、出発するタイミングを見極めたい。
判断するという楽しみを失いたくない。
クライマー、いや人間は便利と言われるものを使い、
何かしらの能力を失い始めているかもしれない。
最近はGPSを持ち歩きながら山を目指す人も多いようだ。
初めて道迷いした中学生の時の西丹沢の藪山から始まり、
以来、何度となく山の中で自分の位置を見失ってきた。
それでも、吹雪の中見覚えのある場所にたどり着いた瞬間や、
深い藪を抜け出し正しい道に戻れた時の喜びは、
ときには頂に到達するよりも感激するものだ。
禁欲的にさえ見えるかもしれないが、
動物としての能力が発揮できる機会を守っていくことは
山で生き残るうえでも重要に思えてならない。」
p182:「自然を愛しているからという理由だけで踏み入れるのではない。
まして自己表現のために高みを望むものでもない。
限界線から一歩踏み出すたびに、生命が躍動した。安住できる土地を離れ、
不安や孤独を感じながらも、克服することがより困難で切り立った場所に向かって行った。
同じ領域では満足できなかった。」
p183:「登山ブームは「楽しむだけ」の登山者を生んだ。ネット上には無数の「山」があふれ、
メディアはこぞって気楽な山を紹介する。タレントのような人々が山の素晴らしさを語り、
テレビ画面には冒険ショーが繰り広げられる。僕は彼らを非難するつもりは全くない。
むしろ大いに自然に触れ、山を楽しんでもらいたいと思っている。それにしても……、
アルピニズムは失われつつあるのだろうか。「どこまでやれるのか」は必要ではないのだろうか。
古典的な考えかもしれないが、僕は、いつまでも限界に向かう道を忘れないでいたいと思っている。」