記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

幡野広志写真展『いただきます。ごちそうさま。』

少し時間が経ちましたが、先日の東京行の目的だった
写真家で猟師の幡野広志さんの
写真展『いただきます。ごちそうさま。』について。


SNSを通じて、その存在を知った時には、
幡野さんは末期の癌に侵されていたのだが、
死について、あるいは生き方について
非常にまっすぐなメッセージと素直な感情を
日々発信しつづけておられる。
そんな彼の導き出す言葉や写し取った写真に、
並々ならぬほとばしりや力強い説得力を感じ、
これは単にSNS上での情報や画像といったことではなく、
きちんと作品として生の感覚で受け止めたくて、
はるばる大阪から観に行ってきました。




場所は神田にあるego Art & Entertainment Gallery。
整然と並べられた写真の数々は
まさに生き死にの最前線を写し取った
生々しい匂いのするものばかりだった。
その一瞬を切り取るという写真行為にしても、
獲物に狙いを定めて引き金を引く行為にしても、
どちらも、刹那の瞬間にすべてが決まる真剣勝負という意味では
相通じる部分がある。
幡野さんの発する言葉に宿る混じりけのないまっすぐさは
きっとこの誤魔化しの効かない真剣勝負によって
磨かれてきたものだろうと思う。


一方で、幡野さんご本人の言葉によれば、
銃は命を奪うものだが、カメラは命を記録するもので、
命を奪ったさきには“生”があるが、
命を記録したさきにあるのは“死”であり、
狙いを定めて相手を捉える(捕らえる)という。
行動的には似ていても、本質的には真反対な行為だという。
自分は写真は撮ることはあっても、
銃口を覗いたことも引き金を引いたことがないが、
その両方の視点から見える世界のあちらとこちらを行き来することで
得られる生き死にに対するまなざしは、
日頃、そういう生々しい現場を存在しないかのようにして振舞いながら
実はその恩恵に切実に甘んじている我々の現代生活に
強烈なアンチテーゼを投げかけてくる。




この地球では、世界規模からマクロな微生物の世界まで、
あらゆる生物は必ず自分ではない何かを栄養として取り込んで生命を繋いでいる。
捕食する能力を磨き、捕食されない能力を磨き、
まさしくリアルな生存競争の果てに、
進化するものがあれば、滅びゆくものがある。
そうやって生と死を絶えず交わらせながら、
命のバトンは脈々と続いてきた。
そういう実際の現場が巧妙に、システマチックに、
生活の現場のバックヤードに隠される現代社会においては、
その生々しさを感じられる瞬間や場面に触れる機会はそう多くない。
そういったものはもはや自分の生活、人生とは全く別のもの、
かけはなれたものという風に感じる人も少なくはないだろう。
しかし、生きるということは、そもそも純粋な意味で綺麗事ではない。
綺麗事のように感じて生きているのは、
間違いなく存在する綺麗事ではない部分をなかったことにして
直視しようとしていないか、
綺麗事ではない部分を誰かが担っているということに
思いが至らないだけのことだ。
誰か(何か)が満たされるという事は、
等しく誰か(何か)の犠牲の上に成り立っているという事である。
その犠牲や搾取に対して罪の意識や善悪を感じるのは,
ある意味人間的発想ではあるが、
そもそもそれがこの世界の原理原則であり、
忌むべきものでも、嫌悪することでもなければ、
不可避なものである。
それは個人の嗜好や価値観といったミニマムな視点では
到底覆らえることのない真理であるが、
そもそもそういうものの上に世界が成り立っているという事を
理解できないとしたら、それはれっきとした現代の病だろう。






わずかな時間でしたが、
匂い立つような写真の前に対峙して、
静かに思いを巡らすことができました。