安珠写真展「Invisible Kyoto 目に見えぬ平安京」
日曜日は京都へ。
美術館えきKyotoで開催されている
安珠さんの写真展「Invisible Kyoto―目に見えぬ平安京― 」の観覧と、
記念トークショーへ。
安珠さんは学生の頃に”モードの神童”ジバンシーにスカウトされ、
オートクチュール専属モデルとして世界的に活躍され、
のちに写真家に転向、物語性のある作品をいくつも発表し、
現在は京都をテーマに撮影をされている女性写真家さんです。
今回のテーマは、
「Invisible Kyoto―目に見えぬ平安京― 」ということで、
現代の京都の街並みの表層、
その裏側に脈々と流れている
目には見えぬ平安の文化様式や美意識たちを、
写真を通じて浮かび上がらせるという、
極めて高度な想像力を要する試み。
その作品たちの魅力を最大限に引き出すために、
演出として味付けされているという、
なんとも贅沢な作品展です。
現在の日本の文化様式の骨格を辿れば、
平安時代にそのルーツを見ることのできるものは多い。
平安以前までは、自然という言葉も概念もなく、
人の営みは自然と一体であった。
それが、月を愛で、花を愛で、
人間がそれらと相対する文化が芽生えたことで、
人間の対照として自然が生まれた。
まだ同時期に、
陰と陽、天上と地獄といった観念的な世界観を形づくることになり、
それらを模した様々な文化・芸術が花開いた時代でもある。
そして日本古来からのもっとも重要な理念の1つとして、
もののはあれ=無常の世界がある。
美しい花は、その短い命を全うし儚く散るからこそ美しく、
川の流れは2つとして同じようにはならないからこそ尊く、
月は欠け、雲に隠れるからこそ、愛おしく感じる。
平穏で豊かでゆとりある時代だからこそ、
めくるめく四季の移ろいの中での営みの些細な美しさを、
文化にまで昇華させることができた。
「花散らで 月は曇らぬ よなりせば ものを思はぬ わが身ならまし」
西行が詠んだ一句こそが、
日本の理念の1つの結晶である。
現代の京都の町の在り様に、
これら平安の息吹きは、確かに、
人の営みのそこかしこに深く存在し続けているが、
それを可視化するということは並大抵のことではない。
しかし、幾つもの想像力を
複雑かつ丁寧に組み合わせながら、
その残像をどうにか朧気にでも
浮かび上がらせることはできるかもしれない。
そういった創造的な挑戦の野心や苦心が
見る者の心を捉える。
いくつかの発光を念写し、
あの世、この世、天、地、宇宙を模した音を重ね合わせる。
そして丁寧に選りすぐられた言葉によって
それらを強く結び付けた時、
どこからともなく黄泉の化身ジャコウアゲハが現れて、
我々を千年の都の時空の狭間へといざなう。
自然が大胆不敵に演じる儚き一瞬の美しさ、
地獄の門の先に末恐ろしく広がる闇、
奇々怪々、もののけたちの戯れ、
まだ人間界のすぐ真隣に居を構える神々の気配、
京の都はもはや、宇宙の中心となり、
万物のエネルギーの一切合切を抱え込む。
平安の世が現代の京都に甦る。
実に創造的で、エネルギッシュな作品展でした。
記念トークショーについては別記事へつづく。