蓮沼執太フィル アントロポセン 360゜大阪全方位型 千日前ユニバース
”蓮沼執太”というワードは、
そこかしこから耳にはしていたのだが、
実際にお目にかかる機会がなく(特に関西にいると)、
芸術家なのかミュージシャンなのか、
はっきりと何をしている人なのかもわからないままであったが、
ネイキッドな状態でのファーストインパクトを期待して
あまり余計な前知識を入れずにやってきた。
とにもかくにも、
何か面白いことが起こるに違いないという確信だけはあって、
あとは、その場にいるということを自らのミッションと課して、
ひさしぶりに味園ユニバースの迷宮へと吸い込まれた。
あの猥雑で、刺激的な地下世界に、
一筋の光明を与えるかのように、
ひときわ眩く光るオーケストラのセットが中央に鎮座し、
それを取り囲むようにして、オーディエンスが二重にも三重にも巻いて、
熱気を帯びていた。
座席も用意はされていたが、定点観測するよりも、
あちらこちらと動き回りつつ、
色々な角度から眺めることが恐らく一番の醍醐味だろうと、
あえて立ち位置を決めなかった。
時間となり、脇からメンバーが登壇していく。
そうしていくうちに、ざわついていた周りの声も徐々に小さくなり、
おのずと中央へと皆の意識が集中していく。
その緊張感のちょうどいいふくらみ具合を推し量るようにして、
波音を立てることもなく、なめらかに音楽が始まってゆく。
心地の良いリズムとテンポが、リフレインし、
それが少しずつ音の積み重なりとなって、
大きくうねりながら会場を渡ってゆく。
そうしてその心地よさが少しずつ身体の中へと浸透していくにつれて
こちら側も自然と手や足や全身が、同じリズムを刻みだす。
まるで、ちょうど人肌ほどのぬるま湯にゆったりと半身浴をしているかのように
何の抵抗や刺激もなく、内と外を実に自然に透過し、
音も場所も人も、その殻をゆっくりと解かれて一体化してゆく。
ああ、心地よい。
曲の合間に移動をして、色々な視点から眺めていると
まるでホログラムのように色とりどりに発光して、まさしくシャングリラの様相。
蓮沼執太フィルの音楽のベーシックな部分は、
いわゆるミニマムな音を何層にも積み重ねたり、ずらしたり、
そうすることによって生じるグルーブを
増殖させてゆくという点にあろうと思う。
そこにポップスとの交わりがあったり、
独白にも近いラップが練り込まれたりして
音楽の系譜のひとつの最前線とみなすことができるだろう。
最も興味深いのは、反復やレイアリングを多用するような
極めてデジタルな音のつくりをしているものを、
あえてオーケストラというアナログな形式で実践しているというところだ。
これによって何が起こっているかといえば、
ヴァルター・ベンヤミンのいう”アウラ(場所の一回性)”の創出ということに
芸術が回帰したのだ。
つまり、この普遍的かつ最大公約数的な音楽が、
ユニバースというここにしかない場所と結びつき、
オーディエンスも巻き込みながら、
「ここでしかない」「一度限りの」現象として光輝き、
音楽が音楽としてだけ存在するのではなく、
生き生きとした場所を創造したのである。
人の介在する生き生きとした場を創出する類の音楽をいくつか体験しているが、
例えば大友さんのそれは、
時にはその場を破壊しかねないほどのエネルギーを発揮したり、
人のポテンシャルの限界を引き出そうとするような野心的で挑戦的なもの。
三田村管打団?のそれは、
自分たちのファミリーともいうべき輪をどんな場所でも披露し、
そこに居合わせた人たちを、その輪に招き入れて、
カラフルな色に染め上げてしまうような牧歌的で喜劇的なもの。
それに対して蓮沼執太フィルは、
まずは客観的にその置かれてる場所の特性を受け入れ、
それを前提として、極めて冷静にその場に適した自然な音を作り出すというような
環境的かつ普遍的なもののように感じた。
それは、環境音をサンプリングするというところから
蓮沼さん自身が出発していることにも起因するのかもしれないが、
音楽を能動的に作り出すというよりも、
その場にふさわしい音環境をデザインするといった方がぴったりくる感じがした。
まるで夢心地のまま、時間はあっという間に過ぎてしまった。
そして蓮沼執太という伝道師に導かれて、驚くべき地平を目撃した。
終演後はサイン会。まさかフルメンバーが並んで、
全員のサインをもらえるとは思ってもみなかったが、
わずかな時間ながら想いと感謝を伝えることができた。
ちょうど、トクマルシューゴグループのイトケンさんと三浦さんもいらして、
少しだけお話し。
早くも次が待ち遠しい。