記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

「大友良英と音遊びの会」関連企画 「社会と音楽」トークショー at KAVC

先週の、土曜日。新開地にある神戸アートビレッジセンターへ。
大友さんがライフワークの陽に関わっている「音遊びの会」の演奏前夜に
トークショーがありそちらへ。
おなじみの塩屋・グッゲンハイム邸の森本アリさん、
音遊びの会の飯山ゆいさん、
そしてキュレイターでBreaker Projectの雨森信さんという、
音楽の現場を知り尽くしたそうそうたる面々が、
「社会と音楽」というテーマでトークを繰り広げます。
みなさん、現場の最前線で、音楽を通じた社会とのかかわりを模索し、
またその中で音楽やアートがどのように発展していけるのか、
という視点を常に持ちながら活動されている方々ばかりなので、
ものすごく説得力があり、課題はあまたあれど、
少なくともこれから進む方向をはっきりと指し示すような内容でした。


↓社会と音楽


↓森本アリさん、雨森信さん、大友良英さん、飯山ゆいさん


↓中身の濃いトークでした


先日の『ワンダーウォール』の話とも相通じるのだが、
豊かさというものについて、ここ最近考えるようになり、
社会のシステムが、個々人の都合などお構いなしに、
便利で効率的で、機能的なものへと日々更新され、
あるいは”生産性”なるものが求められるような
社会の価値観が果たして、豊かさや幸福につながっているのかどうか。
もっと余白とか余計とか、非生産的なもの、不便さにも
豊かさの源はあって、
それらが完全に排除駆逐することで失われるものがある。
その豊かさについてアートや音楽はというのは、
大友さんの言葉を借りると、
模範的で機械的な価値構造をぶち破るきっかけ=トリガーになりうる、
つまり、ある意味で生活様式の範疇の外側から、
別の世界の可能性を暴いたり、そそのかしたりできるもので、
それをうまく社会と関わり合いを持つことができれば、
いろいろな展望は見えてくるかもしれない。


明治維新でちょんまげと刀を捨て、
精神的拠り所すら、西洋にすっかり明け渡してしまって以降、
日本の音楽もまた、西洋主義的な音階やシステムに迎合してしまって、
その範疇の中でしか音楽が育まれなくなり、
またそういった基礎教育によって音楽環境が固められてしまって、
一見多様に見える音楽文化もまた
権威主義的な枠組みに押し込められてしまっている。
特に深刻なのは音楽の基礎的な教育の部分で、
せっかく音楽への興味や意欲があっても、
まずはその規範を徹底的にマスターするという強制的な教育は
その純粋な思いを簡単にくじいてしまい、
結局は開かれた世界ではなく狭き門として立ちはだかる。
結局は決められた範疇で、決められたルールに従うことを強制され、
そこからは自由な発想による自由な音楽が芽生えるのは難しい。


例えば、幸か不幸かそういった教育の範疇から運よく逃れてきた
「音遊びの会」のメンバーの、
ある意味プリミティブな音楽の爆発力を目撃すると、
我々が”音楽”の世界だと思い込んでいるその外側にも
音楽の地平が広がっていることをはっきりと思い知らされる。
現代の模範的な音楽教育を通過することなく、
とはいえルール無用の完全な野放図であれば、
それはもはや音楽ではなくただの音になってしまうわけで、
そのちょうどいい塩梅の新たな音楽のメソッドを構築することができないか、
というのがみなさんの大きな課題として議論が交わされた。


その一つの方法として大友さんらがよく使っているのが
必要最小限度の手信号・指さし等による
指揮で行うアンサンブルズのような形式で、
それにより、音楽的基礎を伴わない人であっても、
気軽に音楽に入っていくことができ、
それにより広がる輪は一つの小さな社会を形成することができる。
東日本大震災で大打撃を受けた故郷・福島で大友さんは
文字通り人々の心の復興を期して
フェスティバルFUKUSHIMAというイベントを開いたが、
それは、単に東京のプロミュージシャンが福島に駆けつけて
地元の人たちに演奏を鑑賞してもらうだけでは意味がなく、
プロも素人も一緒に混ざり合って、音楽を作り上げることを通じて、
その場や時間を共有してはじめて、
復興への団結につなげることができる。
そしてそういう場を創り出すことこそが
音楽やアートの一つの極致であるように思います。
同じく大友さんが着目している「盆踊り」などまさしくそれで、
西洋主義的なダンスの基礎や技術がない人、リズム感のない人でも、
手と足を揺らし、輪に入れば、皆一緒になってその場を共有できる。
あっち側とこっち側という垣根を越えて、
地域や社会全体を巻き込んで、通じ合うこと、
それが一つの豊かさの根源のような気がします。
ただ、これらの方法も、限界があって、
音頭を取る人間が固定化すると、
指し示す側と指し示される側という境界ができてしまうし、
一定のルールや範疇が時間の経過とともに幅を利かせてくることになる。


森本アリさんは拠点としている塩屋の町並みで
みんなで音楽を鳴らしながら練り歩く「しおさい」についてプレゼン。
今解体の危機に瀕している京大の吉田寮と、
同じような危機を乗り越え、
生き生きと地域の活動拠点として、実に生きる場として機能している
旧グッゲンハイム邸を対比すると、
ますます豊かさという意味を考えずにはおれませんでした。
もちろん、それは自然発生的に生まれるものではなく、
それを先導する正しいリーダーと、それに賛同する多くの賛同者がいて、
それらが社会的にアンサンブルすることによって育まれるものではあるのだが
コンパクトな地域社会をうまく巻き込みながら、
誰もが程よい距離感で繋がっているという、神戸塩屋の町は
ひとつの社会の在り方の新しいお手本のような気がします。
もちろん、そういった社会や場を創り出すことも重要かつ困難なのだが
もっとも重要なのは継続的にそれを維持していくことで、
しおさい」も、あまりにその規模が大きくなり過ぎたことの弊害が
裏ではいくつも発生してしまったがために、
去年の第4回で一旦お休みとなってしまった。


こういう様々な実践的な試みと、一定の成果を得つつも、
やはり課題や障壁は生じ、
何より、小規模的でエリア限定的な成功ではあっても
それが社会を巻き込んで大きな動きにまで発展していないことを
彼らはよく把握していて、
だからこそ、その先、次の一手をそろそろ模索しなければならないと
真摯な姿勢を貫いているわけなのだが、
結局負け戦なんだよねえとと切なく付け加える
大友さんの歯がゆさというか、
グローバルで技術的で管理された大きい流れに
どうしてもゲリラ的にしかレジスタントできない限界もまた
はっきりとしたところでした。


↓大友さんアリさんと


大友さんとは、随分早く会場についた時にバッタリして
少しお話しできました。
アリさんには似顔絵バッヂをプレゼントして喜んでいただきました。
お二方とも、こうあってほしいなという社会を
見える形で指し示してくれる頼もしい存在であると同時に、
楽しい音楽にいつも一緒に混ぜていただける大切なお兄さんたちです。


↓アリさん似顔絵