記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

大阪市立大学大学院 都市経営学科 シンポジウム「銭湯はまちづくりに寄与する!」

金曜日の晩。

古巣の大学の社会人サテライトで、銭湯関連のシンポジウムがあり、

サウナの梅湯の湊くんや、千鳥温泉の桂さんなど、

日頃お世話になっている方々がパネラーとして出席するという事で

馳せ参じました。

会場は駅前ビルの6Fということで、あまたの強力な誘惑を振り切って

会場へ向かうと、たくさんの参加者がおられました。 

 

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登壇者は、先のお二人に加えて、

銭湯マニアでの松本康治さん、

それから東京で建築的なアプローチから銭湯を考察している

栗生はるかさんの4名で、

前半は各人からの発表があり、

後半は進行係の投げるテーマについてのディスカッションと質問という形式。

 

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まずは松本さんから、淡路島の岩屋商店街にある扇湯さんの事例の発表。

ここは廃業寸前だったところを松本さんら銭湯好きが、

どうにかこうにか継続にこぎつけ、

銭湯保全を出発として、

そのためのボランティア集めや、資金集め、

集客の様々な工夫をしていく中で、

地域との関わりを深め、

銭湯というハコからどんどん拡張していって、

銭湯を中心とした小さなコミュニティを実現させていっている。

 

梅湯の湊君は、銭湯経営者という実際の立場から、

銭湯界隈の現状について。

今、若い人たちが銭湯に新しい価値観や可能性を見出して、

ちょっとした銭湯ブームになっていて、

湊君自身もそのトレンドの先頭に立ち、

彼の経営する「サウナの梅湯」も

そのシンボル的なスポットになっているわけだが、

ファッション的にそれらを求めてやってくる今の現状を、

湊君自身は意外と冷静に見つめているようで、とても感心しました。

もっとイケイケどんどんで

経営する店舗を増やしたりしているのかと思いきや、

極めて現実的な観点をもち、中・長期的な視点で考えながら、

愛すべき銭湯をどれだけ残していけるかということを

日々模索し実践している。

銭湯経営のしくみ(大家との契約で成り立つ借り湯)について、

1日どのくらいの客が見込めて、売り上げがどれだけあり、

それをどれだけ設備投資に回せるか、

それでも10年20年先を見たら、

銭湯保全はかなり難しいミッションで、

というある意味生々しい実際的な話からは、

彼の本気度を改めてうかがい知ることができました。

 

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一方、千鳥温泉の桂さんの発表は、銭湯経営の苦労話がメイン(笑)

一見、楽な稼業に思える銭湯ですが、

拘束時間やら日々の掃除の苦労など、

決して一筋縄ではいかない現実が垣間見えます。

それは、多くの銭湯が

かなりの高齢者によって続けられているという現実と照らし合わせてみると

決して軽い問題ではない。

地域の常連さんのために日々体を張り続けることの身体的な苦労はもちろん、

後継者の不在、老朽化する設備への莫大な投資など、

銭湯を続けられず廃業してしまうメカニズムの一端なのです。

 

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栗生さんは自らが東京都文京区で行っている様々なプロジェクトを

スライドショーを交えながらの発表。

彼女が建築畑出身という事もあり、

はじめは建築的価値から銭湯に着目していき、

それらが過去の遺物として次々と取り壊されていく現状を

リアルタイムで目撃したことで、銭湯へと深くかかわっていく。

そのかかわりの中で、銭湯という場所が、

地域のコミュニティを束ねる役割を担っていることを実感される。

 

銭湯が一つ町から消えるという事は、

大げさではなく、その町が死ぬということである。

銭湯がなくなることで、そこに通う人たちの日々の導線が変わる、

毎日通っていた常連さんの顔が見えなくなり、交流が薄れていく。

銭湯が存在しているからこそ成り立っていたような、

個人店舗や商店街が店を閉める。そうして気づけば更地となり、

真新しい駐車場や、どこにでもあるような平凡なマンションが建ち、

町の風景が一変する。

夜遅くまで煌々と着いていた灯りがなくなることで、

夜歩くのが安全でなくなる等々。

そこにあったはずの隣近所のつながりも町並みも、

もはやかつてのままではいられなくなる。

 

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これらの発表や議論の総括として、

今我々に求められているのは、

そもそもいかに町を起こしていくかという「まちづくり」の観点ではなく、

今ある町をどう使っていくのかという「まちづかい」ではないかというのは

とても合点のいく考えでした。

つまり、新たに作り直す立て直すべきなのは、

町や銭湯そのものではなく、

それらを使いこなす我々の考え方自体の方ではないかということだ。

 

この考え方は、決して銭湯文化にだけ適応されるものではでなく、

例えば、再開発ラッシュによって「京都らしさ」が脅かされている

京都の在り方の問題だったり、築地跡地利用、

あるいは五輪万博レガシーの活用まで射程に捉えうるものだと思う。

 

何事もそうだが、長い歴史の流れから乱暴に遮断して、

突然、真新しいものを出現させたとしても、

それを培養する栄養もないまま、出現した瞬間から荒廃していく。

その土地や場所に根差したものと密接にかかわりながら、

独自の文化やにおいや味を醸し出してきたようなものを、

うまく回収しながら、新しいものを接ぎ木していくことで、

血の巡りがよくなっていく。

銭湯を中心としたまちづくりというのは、

そういう意味で、とても社会に対して「優しい」方法だと思う。

 

銭湯は、その場所柄、世代を超えた人が集い、

普段の日常ではあまり接しないような人

(中には背中に立派な鯉を飼っている方とか)が交わる場所である。

違う世代・価値観がせめぎ合う場という事は、

もちろん、それらがバチバチで衝突するという場合も大いにあるが、

色々な価値観や経験がごった煮で共存する場では、

あたらな価値観や文化を生み出す可能性を秘めている。

そしてそれを銭湯というハコのなかだけでなく、

周辺の商店や地域を巻き込んだ輪へと広げる、

あるいは町全体へと拡張することによって、

「生きた場」を復活させることは決して不可能ではないと思う。

 

日ごろは1銭湯好きとして、利用するだけの立場ではあるが、

いつもよりも少し真面目な銭湯話は非常に興味深かったし、

自分も何かその輪の中でやれることがあるかもしれない。