記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

いしいしんじさんに絵お渡し会 at 京都・誠光社

日曜日。

大切な人と大切な場所でお約束。

京都の誠光社さんにて、

大好きないしいしんじさんと待ち合わせ。

よくよく考えてみたら、

本屋さんで作家さんと待ち合わせなんて、

なんか自分の想像をはるかに超えた

物語の世界の出来事の様で

考えたこともなかったです。

 

いしいさんとは何度もお会いしていて、

そういえば去年も年初めはいしいさんの新年会で、

ご本人の前で『かじき釣り』を歌わせてもらったなあ。

 

以前にも、缶バッヂにしてお渡ししたりしていましたが、

今度講演会でぜひ展示したいという、

なんともありがたすぎるお話しをいただき、

先日の『ぼくのおじさん展』で展示した

パネルをお渡しすることになりました。

 

まずは誠光社さんへ。

まずは堀部さんに新年のご挨拶。

今年もどうぞよろしくお願いいたします!!

 

しばらく本を漁りながら待っていると、

ふらりといしいさんがやってきました。

いつものようにいしいさんらしさ全開の装いを

ビシッと着こなして、かっちょええです。

 

そしてまずは作品をお渡し。

でっかいパネルにいしい親子が仲良く並んでいるのを見て、

おおおおっ!!と感嘆の声を上げてくださいました。

うれしや、ありがたや。

おじさんしか描けない自分が、

子どもを描くのはとっても珍しいのだけど、

ぴっぴ君のあの飛び出すような感じが

うまく出せていたらなあと思います。

 

似顔絵とともに、その人にピッタリな言葉を1つつけるのですが、

いしいさんには、

まるで音楽が飛び出してくるような言葉の世界を

マジックの要領で生み出す想像力の天才という意味で、

「Fantasista(魔術師)」。

そしてひとひ君は、その小さな体に納まりきらないほどの、

無限大の好奇心と、それをエネルギーに光のように駆け抜けていく様は

ぼくたちみんなの希望であり未来のようだといつも感じるので、

「Lumiere(光)」という言葉がすぐに浮かんできました。

 

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せっかくなのでちょっとお話ししましょうと、

畏れ多くもビールをおごっていただきながら、

堀部さんも交えて、いろんなお話。

 

とても興味深かったのは、

京大総長で霊長類学者の山極寿一さんが、

20数年前に一緒に生活をしていたゴリラと、

数十年ぶりに再会した話。

もうお互いに年を取り、見た目も随分変わっているのに、

その懐かしい声を聞いただけで、

ああ、あの時のあの人だ、

あの大切な人だとすぐに気づいて、

もうすっかりしわくちゃになった顔が、

当時の子供だった頃の表情に一変して、

愛おしそうに寄り添って、抱きしめ合う。

そういう記憶や心に響くものの正体はいったい何なのだろう。

はっきりと能力と言える機能的・科学的な問題や理屈でもなく、

極めて情緒にかかる何かがあるんだろうなあ。

 

逆に、大昔、子どもの頃に、ひどい労働を強いられ、

家族を殺された象がいて、年月を経て大きくなり、

今では見世物のショーをしているのだが

ある時、観客の一人の男に向かって、

乱暴をして殺してしまった。

日頃は温厚で、今まで人に危害を加えたことがなかったのになぜか、

いろいろと調べた結果、実はその男は、かつて子どもの頃に、

ひどい労働を強いて、家族を殺した象使いだったそうです。

子どもの頃に売り飛ばされてから、

一切再会することもなかったのに、

数十年ぶりでも、奥底に眠っていた憎しみが

男をあの男だと分からせた。

やはりこれも先ゴリラとおんなじ話。

 

いや、人間の世界でだってきっとそうなのだ。

日頃、目に見えず意識に浮かび上がってこなくても、

何かの拍子で、かつていただいたご恩や憎悪が、

まるで昨日の出来事のようにして蘇るのであって、

こういう縁とか怨とか、

そういう感情や情緒的なものは

決して、決して軽んじてはいけないものなのだ。

 

今この時代、この日本でも、あらゆる世界を見渡しても、

どちらかというと負の縁やエネルギーがぐるぐるとトグロを巻き、

SNSでは怒り憎しみ妬み嫉みの類が、

いとも簡単に軽はずみにばらまかれていることを思うと、

図らずもタイムリーで教訓的な話だなあと。

逆に言えば、日々の親切やまごころ、感謝といったものが、

うまく世界を駆け巡っていけば、

誰もがもっと住みやすい世の中になるのだろうなあ。

自分は後者の可能性に賭けたいし、

僕が大切な人や影響を受けた人の似顔絵を描くのも、

きっとこのため。

 

少し余談だが、昨年、様々な人、

それも本物の言葉を話す人たち(いしいさんもその中の一人)と

たくさん接する機会が幸運にもあって、

彼・彼女らが発する言葉にたくさんのエネルギーをもらったのだけど、

そこから得た結論、

つまり自分が何をどういう風に進んでいくのかということについて

一つの答えが出た。

「not duty winner,but beautiful loser」

汚れた勝者になるくらいなら美しい敗者になろうと。

もはや強いとか勝ちとか、そういう世界ではなく、

そこまでして勝つくらいなら、自分が一歩引いて負けることで、

相手が、あるいは世の中がうまく回るのならば、

それでいいじゃない?という境地。

少なくとも、勝つことを至上命題に、しのぎを削り、

何かを犠牲にしてまで勝ちにこだわらなくてもいい程度には

自分の足場を築くことができたし、

負けることができるくらい、あるいは負けを認めるだけの、

ゆとりが自分に生まれたのだと思う。

去年、1年かけてたどり着いた答えは”やさしさ”だったのだ。

それは40台に突入し、もはや自分は若手ではなく、

若い後進にも目を向ける世代に成熟したという事もあるし、

やっぱり2人の子供を育てる親としての視点も、

そうさせるのかもしれない。

いや、もちろん自分もちっぽけな人間。

やさしさだけでは食べてはいけないし、

世界の情勢がそれを許してくれず、

そんな綺麗ごとがいとも簡単に吹き飛んでしまうかもしれない。

でも、あえてそれを口にするのは、

やっぱり”やさしさ”が世界を救うと真剣に思っているし、

そういう世界にこそ暮らしたいし、

次の世代に残したいから。

 

さてさて、話を戻します。

そのゴリラの見えざる能力?のお話がどんどん発展していって

子ども達(特に幼子)の描く絵や文字が

いかに素晴らしいかという話題に。

ひとひ君、少し前までは、「る」と描こうとすると、

最後止まらずにどこまでも下の部分がぐるぐると円を書き続けて

@@@@ってなってたり、

めちゃくちゃでっかいサイズで

紙からはみ出さんばかりの大きく文字を書いたりしてて、

でも今では学校で習ったりして、定められたマスの中に、

きれいな文字を書けるようになったけど、

ぼくはあん時のひとひの字の方が好っきゃなあって。

それ!それ!とってもよくわかる!

 

文字もそうだけど、例えば絵なんかもそうで、

子どもたちの描く絵って、

ルールとか、様式とか、こう書くべきとか、

そういうことを軽々と飛び越えて、

大人じゃ到底描けないような、

想像力に溢れた世界をシャシャーっと描き出したりする。

わが家も子どもたちの描いた、

その時々でしか決して描けないような絵や落書きを、

いつまでも愛おしくて大事に大事に取ってある。

それらは決してデタラメなんかじゃなくって、

子どもたちが自分たちの目や耳で受け取った

世界からのメッセージを、

そのまんま気持ちに乗せて描いているから、

まさしく本物の絵になっていて、

かつてきっと自分もそういう自由や想像の羽があったはずなのに、

どこへ行っちゃったんだろう???って思う。

 

人は社会・組織という枠の中で

他人と共存して生きているので、

その枠に収まるようにして生きる訓練として教育され、

ああしましょう、こうしましょうと、

少しずつ成形されていく。

それが大人になっていくということ。

それ自体はとっても大切なことだし、必要なことだけれども、

しかし、その反面、そうやって型をつくっていくことで、

失われていく”何か”もきっとあるに違いない。

その”何か”については、あまり教育の上で語られることがないのが、

少し残念ではあるが、

でも大人になっても、子どもたちのもつ”何か”を保ち続けて、

それらを自由に発揮する人も世の中には間違いなくいる。

それは一般的に芸術家と呼ばれている人たちだ。

そういう人たちや、そういう人たちの生み出した作品に

触れたり、かじったりすることで、

その”何か”を感じることができるし、

あるいは、それまで当たり前のものとして捉えていた事象について、

実はそれは教育上押し付けられた”枠”のによるものだったと

暴いたりすることがある。

 

大友さんの素人をあつめてのアンサンブルなんかは、

それを意図的に可視化するような挑戦ともいえるし、

音遊びの会のあのプリミティブに満ちた

その場1回限りの音楽の魅力にも通じる。

いしいさんの「その場小説」もきっとそう。

湧き上がるイメージや思いを、

その熱が冷めて何かの形に固まってしまう前に、掬い取る。

その瞬間、その一度きりの体験。

となると、ベンヤミンが真の芸術に備わると説く

一回性のアウラということか。

 

そしてこの体系化・言語化されていない生(なま)の想像力って、

ひょっとして先日の坂口さん&マヒト君のトークショーでもあった

「言語では意味として回収されない風景」「言葉の向こう側」

ってことなんじゃないか?

少なくともその手掛かりになりそうな重要なキーワードなんじゃないか?

そしてそのトークショー終わりに

マヒト君が弾いてくれた『失敗の歴史』、

あの歌に描かれてあることなんじゃないの?

と、様々がつながって、またもや頭の中に大量の電気が駆け巡って、

バチバチとショートしかかっておりました。

いやあ、ほんの短い立ち話でしたが、

いろんな想像力をいただきました。

 

そろそろこの後の用事のため、堀部さんにご挨拶をして店を出ます。

いしいさんもご一緒にそこまでとなり、一緒に通りを歩きながら、

あそこのお店は美味しいよなど、耳寄り情報をたくさんいただいて、

駅でお別れしました。

 

そうそう、なんとお土産にと、三崎のアタシ社が刊行している

『みさきっちょ』までいただいてしまいました。

装丁は絵本作家の長谷川義史さん。

ちょうど1年前の年末、三崎いしいしんじ祭りという素敵な催しがあって、

それに参加するために、

家族で三浦半島の先っちょの小さな港町へ旅したのですが、

その時のことを思い返しながら大事に読みたいと思います。