記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

あれから26年 阪神淡路大震災 追悼ウォーク

ブログがなかなか更新できませんが、少しずつ…

本記事もどうにか、3.11までにはと。

 

時間を1/17に巻き戻しします。

言わずもがな阪神淡路大震災の日です。

この日は毎年、自分なりの弔いとして、

前日の1/16の深夜に出発をして、阪神間を夜通し歩いて、

当時に思いを馳せながら、

追悼のつどいが行われる東遊園地にたどり着き、

地震発生時刻の5:46に黙とうを捧げるということをしています。

 

26年目の今回は、コロナの影響もあり、

つどいが開催されるかどうか、開催されても参加できるのか、

そして参加できても行くべきかどうか、

特に年末からの感染者数の急増、緊急事態宣言の関係など

毎年のように追悼できるかどうか、

ぎりぎりまで判断に悩みました。

 

ただ、集いは屋外で行われるし、

ほとんどおしゃべりをするような状況ではないし、

他のことはさておいても、

こればっかりは、

やはりやめておくということにはなれませんでした。

 

さて、日頃から自分の震災の経験について、

あるいは毎年のようにわが国を襲う、

豪雨や台風、地震といった自然災害、

あるいは大きな事故事件が起きた際は、

もし自分がその場に居合わせた場合、

どういう行動をとるべきか、どうやって身を守るべきか、

命を守るための最善の策は何かを、

必ず家族で話し合い、シミュレーションします。

それらは、決して他人事でも、

テレビの中のフィクションでもなく、

たまたま今自分の身に降りかかっていないだけの、

今そこにある危機だからです。

 

特に、子供たちには、そのことをよくよく話して、

例えば、火事に襲われた場合どこへ逃げるか、

津波の場合は?昼間なら夜間なら?雨なら?

学校にいる場合、あるいは一人で家にいる場合、

外出先だったら、どうする?

と1つ1つ確認をします。

大災害の場合、子供たちは基本的には学校の先生、

あるいは身の回りにいる大人を頼りに、

その指示のもと動くことになると思いますが、

その大人の判断も決して100%正しいわけでも、

安全を保障するものもでありません。

それはこれまでの災害が残念ながら証明しています。

ならば、どうすべきか。

自分で考え、自分で判断することを

身に着けることが肝要だと思っています。

それは何も、先生や大人に歯向かうとか、

勝手な行動をせよということではなく、

ただ言われるがまま、ただ後についていくのではないように、

現場の状況を自分の目で確認し、考え、

もしここでは危ない、この指示では生き延びれないという

疑問が起こったなら、それを自分の中で排除せず、

指示に従うことではなく、命を守ることを最優先することを

いつでも忘れずにいて、

不幸にも実際そういう場面に陥った場合に、

実際にそう行動してほしいからです。

なにより無事であってほしいのです。

 

正月を過ぎると、自然と震災の追悼ムードになり、

おのずとそういう話を家族でするのですが、

今年ちょうど1.17が日曜日で学校が休みだということで、

長女も一緒に今年は参加するということになりました。

前々から、そのことを願っていたものの、平日は学校があり、

またかなりの早朝ということもあり、

小さい時分では遠征が難しかったりで、

実現していませんでしたが、今年ようやくそれが叶いました。

 

長女に限らず、家族にも、

そしてたくさんの人(震災に関係あるなし関わらず)にも、

1月17日、午前5時46分の東遊園地を訪れて、

あの竹灯篭の火の揺らぎ、

たくさんの人たちの、目には見えないが思いがつまった、

ピンと張りつめた空気を実際に体験してほしいと思っています。

極端に言って、冷やかしでも構わないです。

あの空間からたくさんのこと、つまり、

震災とは何か、復興とは何か、

生きるとは何か、生かすとは何か、

人の思いとは何か、

きっと感じ取れると思いますし、感じ取ってほしい。

 

といっても、真冬に、真夜中、

徹夜で歩かせるわけにもいかないので、

今年は、何よりまず追悼のつどいに参加することを最優先して、

真夜中の追悼ウォークをやめ、

追悼のつどいの後に、昼間の神戸を歩きながら、

娘に震災の記憶を伝えつつ、

西宮北口駅(震災後そこまでしか電車が通じていなかった)を

目指して歩けるところまで歩くことにしました。

 

真夜中に追悼ウォークをしていたのは、

昼間の雑踏が消え、ひっそりと静まり返った街を歩くと、

日常の喧騒でかき消されていた、

震災の日への追憶がよみがえりやすいということや、

静けさの中で黙々と歩くことで、

自分の心の内と向き合いやすいということがあるのですが、

それに加えて、1つ実際的な理由もあります。

というのは、5時46分の黙祷に間に合わせて、

神戸の東遊園地を訪れようとすると、

大阪の初発の電車では難しいのです。

本当は、三ノ宮駅からダッシュすれば、間に合うのですが、

ただ間に合えばいいというものではなく、

慌ただしくことを済ませてしまうくらいならば、

せめて一晩だけでも、夜通しかけて、

じっくりとあの日に向き合う方がよいと思ったからです。

 

今年は夜通し歩くことはしないのですが、

とはいえ初発では娘と一緒では間に合わせるのが難しいし、

どうしようかと思案して、安全第一ということで

神戸で前泊することにしました。

 

前日、色々と用事などがあり、

自宅を出たのが18時過ぎで、

神戸に到着したのが20時を回っていました。

うっかりしていたのですが、晩御飯は神戸でと思っていたら、

緊急事態宣言のおかげで、

どの店舗も20時までで閉まっておりました。

仕方がないので、

晩御飯はコンビニで買ってホテルで食べることにして、

少しだけ夜の神戸を散歩しました。 

震災時に護岸が崩壊したメリケンパーク、

それから誰もいない南京町

 

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少しだけ東遊園地にも先んじて立ち寄ってみました。

すると、いつも1.17と灯す竹灯籠が随分と小さくなっていました。

コロナの影響もあるのですが、

竹灯籠を切り出したり準備する人たちの高齢化などで、

人手、集まりに乏しいというのが原因だそうです。

とても残念なことです。

その代わりとして、広島の豪雨災害の追悼で用いられた

特殊な紙を使った灯篭で「がんばろう」の文字が

すでに火を入れられて浮かび上がっていました。

こちらは、色々な方面に募集を駆けることができるので

たくさんの人に記憶を共有してもらいやすいのだそうです。

自分としてはあの竹灯篭の火にずっと救われてきたので、

竹は竹でこれからも続いてほしいなあと思いますが、

紙は紙で、新しい世代へ記憶のバトンを渡していく

新たに有効な方法だと思います。

 

なにせもう、あれから26年。

つまり、今の30代から下の世代にとっては、

たとえ地元の神戸・兵庫・関西の人であっても、

阪神淡路大震災は実際自分の身に起こったことというよりも、

むしろ教科書やニュースで教えられる、歴史の一部なのです。

震災の記憶を伝えること、

あの日の出来事を決して風化させないこと、

そのことが年々と難しくなる一方で、

ますます重要になってきていると感じています。

なぜなら、毎年、全国各地のどこかしらで

自然災害が起こっているこの国で、

震災の記憶はすべての根っこにあるべきものだと感じています。

 

そして人は忘れる生き物だということ。

同じ過ち、同じ不幸を繰り返してきたということ。

そうならないために、過去の人たちが、あらゆる手段を講じて、

後世に語り継いだとしても、

月日が過ぎ、年月が経ち、いくつもの世代を経ると、

そのことが忘れ去られてしまったり、

目先の都合でいいように解釈されたり利用されたりして、

結局、同じ不幸を繰り返す。

(これは災害に限らず、戦争でも同じことですが)

 

もし、起こりえる不幸に対して次の世代に、

自分にささやかながらにもできること、

語り継げることがあるならば、

それを地道に伝えていくこと。

それがたとえ、たくさんの人を救えなくてもいい、

そんなおこがましいことは考えていない。

ただ、身近な人だけでも救えたなら、

その経験は生きたことになる。

そういうことを、自分だけでなく、

経験者1人1人が地道に続いていけば、

誰かがそれを受け止めてくれる。

そうすれば、地域に一人、会社に一人、

学校に一人、施設に一人、そういう心構えの人がいれば、

もし、災害に直面した場合でも、

被害を最小限に抑えることができるだろうと期待して。

 

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翌日、5時に起床し 、

眠い目をこすりながら、東遊園地へ。

今年は数が少ないこともあるからか、

すでにすべての竹灯籠に火が入り、

ただ温かな光を揺らめかせている。

人出は、前年の25周年に比べるとずっと少ないが、

それでも思った以上に人が訪れている。

メディアの数も例年通り多い。

何度か、どこかの記者さんたちに

お話いいですかと声をかけられたが、

この場所この時間だけは、ただただ静かに人向き合い、

亡くなった人、傷ついた方々に祈りたいので、

遠慮させてもらう。 

 

自分が祈る場所は毎年決めていて、

所定の場所で時間が来るのを待つ。

初めての長女は、神妙な面持ちで、

竹灯篭の火をじっと見つめていた。

この日の一つ一つに、亡くなった方々の魂が宿り、

震災を乗り越えた人たちの思いが込められているんだよと、

娘に伝える。

この温かな炎を見て、また静まり返った空気に触れ、

彼女は何を感じたろうか。

そこに正解などあるはずもないから、

答え合わせをすることなどないけれど、

彼女なりにいのちについて、震災・災害について、

感じ取ってくれたら。

 

そして、会場に時報が鳴り始める。

日頃、時報を聞く機会はなかなかないのだが、

だからこの淡々と時を刻む機械的な声を聞くと、

ひどく緊張を感じて、動悸が激しくなる。

そして5時46分。

黙祷。

 

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今年も無事にお祈りを済ますことができました。

この後献花式などがあるのだが、

この後のウォークに備えて、一度ホテルへ戻ります。

シャワーで体を温め直し、朝ご飯。

すると幾人からラインやらメールやらが入っていて、

テレビに映ってるよと。

慌ててテレビをつけると、

震災の日を告げる各局ニュースにめちゃくちゃ映し出されてる。

たぶん、今年は人出が少なかったので、

他に狙い目の人がいなかったんだろう。

それにしてもこの日、ニュース素材として

何度も何度も流されてたみたいで 恥ずかしい…

でも、毎年あの時間あの場所で

自分がどんな風にお祈りしているのか、

当然見たことがなかったから、それはそれでよかったけども。

 

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さて、もろもろ身支度を追えて、ホテルをチェックアウトし、

再び東遊園地へ。

空はすっかり明るくなり、会場の人出もまばらです。

今一度、お祈りを済ませて、追悼ウォーク出発します。 

 

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東遊園地を7:45に出発し、神戸の街を歩いて、

目指すは阪急西宮北口駅です。

当時、震災によって阪神間の鉄道網は大きく損害を受け、

全線不通となってしまいました。

春先に復旧されるまでの間、

鉄道でもっとも神戸に近くにたどり着けた駅が

阪急西宮北口駅でした。

なので、神戸から避難する人、物資を求めて大阪へ向かう人、

あるいは救護、援助、捜索等で神戸へ向かう人たちはみな、

この距離を歩くしかなかったのです。

その長い距離を歩くことで、

当時の人たちの思いに寄り添うためです。

 

ただ、今年は長女と一緒ということで、

体力的な面を考慮しないといけないし、

またこの日この後、

シアターセブンでの『その街のこども』の

上映&トークショーに参加するために

13時にはウォークを切り上げる必要があるため、

状況によっては途中で切り上げることも念頭に歩くことにしました。

(結果的には長女のタフさが勝って無事完歩でした)

 

特にコースは予定していなかったので、

ひとまずは三ノ宮駅の方へ進み、

そこから阪急とJRの高架橋に沿って進むことにしました。

 

ちなみにこの高架橋は、

神戸市内線高架橋(神戸三宮駅~王子公園駅)といい、

1936年(昭和11年)4月1日の三宮(現在の神戸三宮)乗り入れ時に

建造された鉄筋コンクリート造りの高架橋で、

「旧神戸阪急ビル東館」なども担当した

建築家の阿部美樹志氏によるもの。

幹線道路と交差する3か所のアーチ橋(原田拱橋・灘駅前拱橋・灘拱橋)が

見事な美しさを表現すると同時に、

阪神淡路大震災でも崩壊することなく

80年以上にわたって今も現役で用いられている堅牢さをもちます。

そのことから、歴史的な価値のある土木構造物として、

公益社団法人土木学会から「令和2年度選奨土木遺産」に認定されました。

 

さて、この道ですが、

実は震災をテーマにしたNHKドラマでのちに映画化された

その街のこども』で、

主人公である勇治と美夏が御影にあるおばあちゃん家を目指して

歩いてゆくルートでもあります。

(途中でライブハウスや、たこ焼き屋さんが登場するシーン)

 

この後の映画のためにも、その予習的に、

撮影スポットをいくつかめぐることにします。

 

↓原田拱橋

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王子公園からはしばしの間、山手幹線を歩きます。

しばらく進むと都賀川に。

ここの下流阪神電車の高架下の辺りは、

その街のこども』で

とても重要な会話のやり取りがなされる場面に登場します。

そのシーンで語られる”みんな”という言葉の意味や意義について、

この後参加した映画のトークショーでも映画のキモとして、

トークの中心にありました。

 

 

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そこから引き続き、山手幹線を東へ進み、

将軍通りを過ぎて少ししたところで、

もう一つ映画の重要なシーン、

夏美が震災で亡くなった友人・ゆっちのおっちゃんに再会し、

それまで背負い込んできてしまっていた過去に

手を振ってさよならをするというハイライトで登場するのが、

この風の郷公園。

 

この周辺では、約7割の建物が倒壊や火災で焼失し、

60名あまりの方々が犠牲となってしまった激しい被災現場でした。

その後、復興のシンボルとして、

防災公園として整備されたのがこの公園です。

 

映画で、おっちゃん役をされたのが、

ご自身も震災で息子さんを無くされながら、

ボランティアグループを立ち上げ、

東遊園地の「1.17希望の灯り」の設立に尽力され、

遺族同士の交流や心のケア、

震災を語り継ぐ活動などに長年取り組まれた白木利周さんです。

残念ながら、去年(2020年)にお亡くなりになられました。

白木さんについても、この後のトークショー

色々な思い出話が登場しました。

 

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公園から少し下っていくと、JR六甲道駅です。

ここも震災で激しいダメージを受け、

駅舎が高架線もろとも崩壊しました。

当初は、復旧には瓦礫を除いたうえで高架線を再建する必要があるため、

最低でも2年はかかると想定されていましたが、

幸いにして、レールを敷く部分の梁や床は無事だったため、

これらを元の高さの10m高までジャッキアップして水平に戻し、

崩落した橋脚のみを再建するという

前代未聞の工事プランを採用することで、

地震発生からわずか3か月という短時間での復旧と

JR神戸線全線開通を果たしました。

余震や二次災害の危険性と隣り合わせの緊迫した難工事でしたが、

当時、被災した人々にとって、鉄道網の復旧は、

復興への希望の光であり、未来に向かうための拠り所でもあり、

その想いが工事を請け負った奥村組の皆さんを突き動かしたのでした。

これについては2019年に、

井浦新さん主演、関西テレビ開局60周年記念特別ドラマ、

『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』で描かれました。

 

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時間的にも先へ急がないといけないのだけど、

もう少しだけ寄り道です。

六甲道を少し海側へ下がれば、

阪神電鉄の石屋川操車場です。

ここも地震で、高架の支柱が総崩れとなり、

線路が車両もろとも地上に落下、

被災した58車両のうち24両が廃車になりました。

現在は、車庫は再建され、

高架下では阪急オアシスが営業をしていました。

 

この日持参していた報道写真集を取り出して、

現在の様子と見比べながら、

娘に震災について、復興について、

いろいろと話をしながらウォークを進めていきました。

 

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石屋川を越えて御影です。

阪神御影駅下の商店街の一角に

澤乃井(沢の井)」という湧き水があります。

 

神功皇后朝鮮半島に出兵したその帰りに、

化粧のために水面に姿を映したところ、

その姿があまりにも鮮やかに映し出されたため、

ここを「御影」と呼んだという地名の由来があります。

また南北朝時代には、

この湧き水で酒を醸し、後醍醐天皇に献上したところ、

たいそう嘉(よろこ)びその酒を納めたともいわれています。

 

去年末の湊川隧道でも娘にレクチャーしましたが、

神戸の街は水とは切っても切れない関係性です。

おいしく、また鮮度の高い(腐らない)純水を求める船乗りによって、

港が開かれ、それによって町が発展し、

名水を使って酒が醸されてきたのです。

(一方で、同時に神戸の街の発展は治水という観点も重要です)

 

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さてここまで2時間ほど歩いてきたので少し休憩。

暖を取るのと補給の意味で、駅前の立ち食いそば屋さんへ。

 

休憩後、再び歩き始めます。

ここからは国道2号線とと国道43号線のちょうど中間ラインで

東西を直線でつないでいる鳴尾御影線を歩きます。

この道は、戦災復興事業で用地買収を進めて整備されましたが、

夙川の両岸付近だけは今も未通状態になっています。

 

震災後、大きな問題となったのが、道路交通事情でした。

もともと阪神間は、大阪湾のすぐ北に六甲山が迫る

わずかの平地に広がる土地で、東西を貫く幹線道路は限られていました。

なおかつ、地震の影響で多くの場所で

建物の崩壊した瓦礫が散乱したり、高速道路が横倒しになったり、

火災が発生して、通行できない箇所も多々ありました。

また信号なども使用不能となって混乱をきたしたうえに、

たくさんの人が自家用車で移動しようとして道を埋め尽くしたため、

道路交通はほとんどマヒしてしまいました。

そのため、救急車や消防車といった緊急車両が

通行できないなどの事態が生まれてしまいました。

 

今でこそ、この時の状況の反省として、

大災害時には自家用車での移動はしないことや、

被災時には車はキーをつけたまま放置するなど

円滑な交通を確保するための決まりが生まれましたが、

当時、こういった大災害は完全に想定外の出来事で、

誰もが混乱の中、手探りだったのです。

 

震災後、この点が防災上の問題として、

国道2号線国道43号線の幹線道路2本に加え、第3の道として、

長年未着工部分が残されていたために全通していなかった

山手幹線の整備が急加速し、2010年に全通しました。

おそらくこの鳴尾御影線についても、

非常時における東西の交通を確保するうえで重要な道と思われます。

 

住吉川を越え、天上川を越えると、

今度は、再び川が現れるのだが、この川・要玄寺川がいつも不思議なのだ。

というのが、この川、この鳴尾御影線にぶつかると、

なんと流れを直角に変更して、300mほど西⇒東に流れて、

その先でロックガーデン付近から流れてきた高橋川と合流して、

神戸大深江キャンパスの脇から大阪湾にそそぐのだ。

なにがおかしいかというと、普通、自然の川であれば、

六甲山から一直線に大阪湾に流れは進むはずで、

東西に流れることはないはずなのだ。

実は、これは横川といって、

律令制における条里制の名残で

河流を人工的に作り変えたと想定され、

この川が条里制の区画の境として、

また、田に水を引く水路として使用されたものだそう。

昭和以前には現在よりも少し北側を流れており、

長さも1キロメートル以上東西に流れていたのだとか。

こうやって、ブラタモ的にま町の不思議に気付けると、

町歩きは一層面白くなりますね。

 

さて、その川を渡ると、阪神深江駅。

ここで再び少しだけ南下して阪神高速道路沿いへ。

この深江本町付近の約1kmは、

世界中に衝撃を与えた阪神高速がなぎ倒しになった現場である。

それにしても、改めて現場を見て感じるのは、

本当にこんな強大で強固に見える人口の構造物が、

全くの無抵抗であんな風にいとも簡単に、

横倒しにされてしまったのかと。

それほどまでに自然の猛威に対して

人間はあまりにも無力すぎると。

この絶望にも近い感情(いや無情)は、

震災後にライフラインが復旧して、

テレビだったか新聞だったか、とにかく何かで初めて、

高速道路が倒れている光景を目にした時に感じたそれと変わらない。

ああ、あそこまでの事が今この街で起こってしまったんだ、

ああ、あそこまでなってしまったら、どうしようもないよな。

これはもうどうやったって、敵うはずがないよなと、

まだ中学3年生のガキん坊ながらに途方に暮れてしまったのだ。

 

と、同時に、それほどまでに絶望的な状況だったこの街が

今はどうだ。

人の心の面の復興についてはまだその途上であったり、

物理的な街の再生のやり方やその結果においても課題はたくさんある。

だけども、こうして目の前に、立派な、

しかも震災前よりもずっとずっと強固な高速道路が

再び大地に根差している。

表面上は人の住まいが営みがすっかりと回復し、

人が行き交い車が行き交い、電車が通っている。

人はあの焼け野原、瓦礫の中からでも、手をとりあいながら、

自力で立ち直り、街を再生させてきた、そのことに間違いはない。

その事実だけでも、あの震災の時に感じた絶望を覆すだけの、

前を向く希望になりうるし、

次起こりうる災害に立ち向かう最大の武器になる。

 

 

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芦屋川を渡る少し手前で、

いよいよ神戸市を抜けて芦屋市に入った。

芦屋川はすっかり枯れてしまって、

水の流れが全く見えなかった。

そこを渡りしばらく進むと、小学校のグラウンドが見え、

何かの式典が行われている様子だった。

ここは芦屋市立精道小学校。

8名の小さな命と6名の保護者が亡くなられました。

今、子を持つ親になって、なにより子の安全、それが第一、

これだけは本当に…。

 

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打出のあたりで阪神高速に別れを告げて、

鳴尾御影線に再び戻ります。

そのまま夙川にぶつかりますが、

先述のようにこの川を含めて数百メートルは未整備で

橋が架かっていないので、 渡れません。

川に沿って北上し国道2号に出ますが、

車の往来も激しいので、山手幹線に出て、

そこから御手洗川を伝って、兵庫県立芸術文化センターのところへ。

そうしてどうにかこうにか13時に阪急西宮北口駅に到着しました。

約18kmもの道のりでしたが、

震災のこと、町の事、地理のあれこれ、色々なことを話しながら

長女も元気よく完歩できました。

一種の現場フィールドワークを通じて、

彼女が色々なことを感じ、学んでくれればなによりです。

 

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ということで今年の震災のつどい&追悼ウォークは、

イレギュラーな形ではありましたが、

震災の記憶を伝えるという観点からも

とても有意義なものとなりました。

 

こののちお昼休憩を済ませた我々は、

シアターセブンで『劇場版 その街のこども』の

上映&トークショーへ参加すべく阪急電車に乗って十三へ移動しました。

その話についてはまた別記事にて。

 

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