記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『パリは燃えているか』 by 加古隆 ~NHKスペシャル『映像の世紀』~ / 『El Derecho de Vivir en Paz(平和に生きる権利) 』 by Víctor Jara(ビクトル・ハラ)

1995年に放映されたNHKスペシャル映像の世紀』が

今夏は再放送されていたので、再びシリーズを通してみている。

 

初回放映当時中学生だった自分は、

阪神淡路大震災を経験し、オウム事件を目撃し、

ユーゴ紛争でのサラエボの悲劇を知り、

世紀末的な鬱とした時代の雰囲気を受けながら、

自分の関心の範疇から大きくはみ出した社会の在り方というものに

否応なく考えさせられていた頃であった。

当時は、明確な方法や対象をはっきりと思い描いていたわけではないが、

いわゆる受験勉強や学校で学ぶようなこととは別に、

世界のなりましや、なぜ戦争が生じるのか、といったことについて

きちんと学ばなければならない、

知っておかなければならないと思っていた。

そんな頃にとてもタイムリーな番組として放送され、

今まで知らなかった様々な事柄を知って衝撃を受けたことを

昨日のことのように覚えている。

その衝撃は、それから色々な節目ごとに、

映像の世紀』を見るにつけて、

決して変わらないままである。

 

今年の再放送は、自分からの夏の宿題として

中学生になった長女にも一緒に観てもらっている。

正直少し早いかなあという心配もあるのだけど、

自分がまさに同じ年代に観たこともあるし、

色々なシーンを分かりやすく横で解説をしながら、少しずつ観ている。

今もって日本の教育現場では、受験的な要素がまだまだ重視されるし、

古い時代から順番に授業をして、近現代史は最後の最後、

十分な時間もなく簡単に片づけられてしまっている。

自分の今現在生きている時代や世界とまさに地続きにある、

ほんの2世代3世代前の時代がどのようなものであったか、

今現在の世界の在り方が一体どんな理由で成り立つようになったのか、

これらを知ることは、いついかなる時代でも極めて大切なことで、

まず何より身につけておかねばならない教養だと思っている。

(そしてこの基本的な教養を身につけないままの大人がどれほど多いことか)

 

我が国が直接的に体験した最後の戦争である太平洋戦争から76年である。

遠い過去であることは間違いないが、でも少し見方を変えてみよう。

自分がここまで約40年生きてきたということは、

実は自分が生まれた時代からたった30年ちょっと前の出来事なのだ。

長女らの年代からみれば、

ちょうど我々(親)が生まれた時代に戦争があったということになる。

そう考えれば、戦争はそう遠い過去の遺物ではない。

そして、この76年の間にも、そしてこの現代にあっても、

この地球上から戦争はなくなってはいないし、

むしろ局地化、複雑化、巧妙化、先鋭化の一途をたどり、

決して対岸の火事ではない。

 

映像の世紀』は文字通り、

カメラの発明によって映像というものが生まれた

20世紀初頭からスタートするのだが、

その20世紀は第1次世界大戦で幕が上がる。

まさに映像の世紀は戦争の世紀である。

その第1次世界大戦という未曽有の大戦で

両陣営ともが極度に疲弊をし、

戦争の残酷さもむなしさも悲劇も十分すぎるほど経験をし、

二度と同じ過ちをしまいと誰もが誓ったはずが、

そのわずか20年後にはWWⅠですら足元にも及ばないような

史上最悪の第2次世界大戦が引き起こされたという事実、

そしてそれどころか、いかに効率的に人を殺せるか?

という技術や思想や作戦が、あの短い年月の間に、

どれだけ加速的に発達をしていったかという事実が、

いったい何を意味するのか。

その疑問こそが、戦争の本質を解く鍵ではないかとずっと考えてきた。

(どの国が悪いとか、誰それが悪いとか、

そういうわかりやすく批判の対象を見つけ出して、

結果論的(もし勝敗が逆転してたら評価が変わるのか?)に評価して、

議論を単純化することは本質を見えづらくしてしまう。

もちろん、罪は罪だが、ここでは個別の事より、

もっと大きな戦争そのものの概念についての議論をしたい)

 

映像の世紀』が生々しい映像でもって我々に知らしめるのは、

人間という種は、内包する欲望や芽生えた野心を実現するために、

同じ人間同士で容赦なく争う生き物であるということだ。

人間はそれ自体、聖なる存在ではなく、

そういう凶暴性や暴力を誰もが内に抱えているし、

生活の様々なシーン

(例えば受験、就活、スポーツ、様々なコンテストやコンペ、営業活動、

あるいはいいねの数やフォロワーの数といったものまでetc)

で生じうる「競争」に参加させられ、あるいは自ら飛び込んでは、

その種としての本能を、ある意味で希釈して無毒化した状態で、

多かれ少なかれ発揮したり、排出したり、されたりしている。

その「競争性」が人類に大いなる繁栄や、発展を

もたらしてきたことは疑うべくもないが、

それは極めて危うい諸刃の刃であって、

その強大なエネルギーが負に向かえば

大いなる悲劇をもまた生じさせてきた。

多くの人がそれを信じて疑わないが、しかし実際は残念な事に、

人類の歩みは必ずしも前進のみ、向上のみの一方通行ではない。

それは歴史が証明をしている。

実際、人類の歴史は、まさに戦争の歴史だ。

争いごとのない時代の方が実は稀有なのだ。

 

おそらく、この人間が種として抱えている、

暴力性・凶暴性をそなえた「競争性」がなくならない以上、

つまり人間が人間同士で争う生き物である以上、

戦争はきっとなくなることはないだろう。

その事実をまず受け入れ、そこを出発点として物事を考えていかないと、

いけないような気がしている。

つまり、人間はいつでも凶暴化したり、暴走する危険がある。

それを何かのきっかけや、誰かのそそのかしによって、

一つの大きなうねりとして収斂させられたり、

まんまと利用されてしまえば、

戦争はいとも簡単に実現してしまうということだ。

つまり、戦争は過去の遺物でもTVの中のショーでもなく、

いつでもどこでも我々の生活の中にとどまり続ける大いなるリスクなのだ。

そのリスクをリスクとして自覚し、認識し、そのうえで、

日々、いくつもの予防線を張り、兆候を監視し続けることが、

そのリスクに対抗しうる我々一般市民のもちうる対応策なのだと考える。

 

実際問題、事実として、

人類の歴史を鑑みてみれば、戦争はいったい誰が起こすのかといえば、

ほとんどの場合は国家であり為政者である。

もちろん、民衆や一般市民が蜂起することで、

革命や一揆という形の争いが生まれることはある。

しかしそれだって、既存の政権や権力者による圧政や弾圧がまずあって、

それが跳ね返って表出したものである。

 

言い換えれば、戦争の発案者は、戦争の主体は、

我々一般市民ではなく、国家であり、

実際にはその国家を操る為政者や一握りの権力者や政治家、

それらに取り入るゴマスリ者

(その多くは思想や理念に深く共鳴して賛同するというよりも、

極私的な虚栄心を満たすため、

あるいは既得権益を享受したいだけの者たち)

であり、我々一般市民は彼らの操り人形として消費させられるにすぎない。

彼らにとって国民などというものは、

人権がありそれぞれ人生や暮らしのある尊重されるべき存在ではなく、

勢力として数えられる頭数、数字に過ぎない。

(今まさにコロナ禍で感染者数、重症者数、死者数と、

数の追いかけっこばかりして、その数値に一喜一憂して、

医療の現場も、一般市民の生活も顧みられていないことは、

まさにこのことを如実に証明している)

 

一般市民はいつだって、どの戦争においてでも、

突然戦争の開始がお上から告げられ、メディアや有力者から唆され、

訳も分からないうちに加担させられ、

そうであることが素晴らしいと優しくささやかれ教育させられ、

次第にその状況を強制的に受けれさせられ、

気付いた時には逃げ場を無くし、

現実を受け入れるため=現実を肯定する(せざるを得ない)ために、

自らが進んでその状況にのめりこみ、

自分がようやく受け入れた現実が、

実は間違っていること

(それは実は知りつつも、もはや一番聞きたくないこと)を

何度も思い起こさせようとようとする厄介者を

排除したり罰したりするようになり、

ついにそこまでたどり着いてしまえば、

もはや後戻りはできなくなり、

開き直って過激化し、歪んだ正義が完成する。

そうして突き進んだ先に待ち受ける暴力や分断や恐怖や貧困や死に

無抵抗なまま傷つけられてゆく。

もう取り返しのつかない段階になってようやく目が覚めた時には、

全ては失われるのだ。いや失われてきたのだ。

最低限の暮らしも、人間的尊厳も、隣人愛も、

友情も、本当の意味での正義も希望も、

そして愛する人々も。

 

そして、まさに今、この国はどんどんおかしな方向に進んでいる。

自分は戦争を起こすことも、加担することも、

巻き込まれることもはっきりと反対だと、

ここではっきり表明しておく。

戦争を始めるのは、いつだって為政者である。

そしてその為政者が戦争を行えるのは、

我々一般市民(有権者)が油断した時、

権利を自覚できないほど堕落した時である。

そこには大いなる責任が発生する。

そして時計の針はいつも一方向であり、巻き戻しはできない。

このことは誰しもが肝に銘じておかなければならない。

 

さて、前置きが随分長くなってしまいましたが、

映像の世紀』の素晴らしいものの一つに、

日本を代表する音楽家加古隆さんの作曲した

テーマ『パリは燃えているか』があります。

今年は8.6の広島に原爆が落とされた日に、

黙とう代わりのレクイエムとして弾き語りをしました。

珍しく、リードギターとソロとの二重録りです。

2台のスマホで原始的に録音したので少し音質はよくありませんが、

よかったら聴いていただけると嬉しいです。

 

ちなみに背景には、写真というもう一つの眼で

20世紀を目撃し記録し続けてきた『LIFE誌』の表紙たちと、

自分が中学時代からずっと関心事として関わってきたユーゴスラビア

(ちょうど『映像の世紀』が放映された1995年には内戦がおこっていた)

現在のボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボを訪れた際に購入した

ライフルの薬莢を用いました。

 


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せっかくなのでもう一曲、弾き語りした曲を紹介します。

チリのフォルクローレ歌人で、

エバカンシオン(新しい歌)運動の代表的存在であった

ビクトル・ハラの代表曲『平和に生きる権利』です。

アメリカを影の後ろ盾とした独裁者ピノチェト将軍が引き起こした

1973年のチリ・クーデターの際、

軍によってチリ・スタジアムに連行されたハラは、

最期まで歌で抵抗を続け虐殺されたといわれています。

(チリ・クーデーターについては、

ジャック・レモンシシー・スペイセク出演の

1982年パルムドール作品、『ミッシング』で描かれています)

当時、激化するベトナム戦争の惨劇が連日世界に駆け回る中、

インドシナに暮らす市井の人達への思いをしたためた、

この暴力に屈しないこの平和の歌は、

その血塗られられた歴史とともに、

語り継がれ歌い継がれるべきものです。

市井の人間として、そして歌い手の端くれとして、

この歌を発信します。

 


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『El Derecho de Vivir en Paz(平和に生きる権利) 』

by Víctor Jara(ビクトル・ハラ

 

El derecho de vivir,
poeta Ho Chi Minh,
que golpea de Vietnam
a toda la humanidad.
Ningún cañón borrará
el surco de tu arrozal.
El derecho de vivir en paz.

 

Indochina es el lugar
más allá del ancho mar,
donde revientan la flor
con genocidio y napalm;
la luna es una explosión
que funde todo el clamor.
El derecho de vivir en paz.

 

Tío Ho, nuestra canción
es fuego de puro amor,
es palomo palomar
olivo del olivar
es el canto universal
cadena que hará triunfar,
el derecho de vivir en paz.

 

La, la, la, la, la, la, la
La, la, la, la, la, la, la
La, la, la, la, la, la, la
La, la, la, la, la, la, la

 

es el canto universal
cadena que hará triunfar,
el derecho de vivir en paz.

 

el derecho de vivir en paz.
el derecho de vivir en paz.

 

平和に生きる権利を

 

詩人ホーチミンは歌う

ベトナムの空から

 

どんな大砲の弾も

あなたの稲田に刻まれた畝を

消せはしないだろう

平和に生きる権利を


インドシナの地は

広い海の向こう

そこはジェノサイドとナパーム弾で

花が踏みにじられる地

 

月ほどの大きな爆発が

みんなの叫びをひとつに

平和に生きる権利を呼ぶ声となる


ホーおじさん、ぼくらの歌は

純粋な愛の炎

鳩小屋のハトに

オリーブ畑のオリーブに

それは世界に響く歌

平和に生きる権利が勝利するためのひと鎖


それは世界に響く歌

平和に生きる権利が勝利するためのひと鎖

 

平和に生きる権利を

平和に生きる権利を