記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

『スナフキンの名言』 by トーベ・ヤンソン

2014年はムーミンシリーズでおなじみのトーベ・ヤンソンさんの生誕100周年にあたり、
日本だけでなく各国で記念イベントなどが催されています。
誰にも小さいころから思い入れのあるアニメや漫画のキャラクターがいると思いますが
自分の場合、スナフキンというキャラクターがとても大切な存在であり続けています。
ご承知の通り、スナフキンは自由と孤独をこよなく愛し、
音楽を旅の友として流浪を続けるキャラクターです。
自分というものの存在について常に自問し、
他人に対しても依存しない代わりに、慣れ合いやしがらみからも解放されたスナフキンは、
まるで、フィンランド湾に浮かぶ孤島に手作りの小屋を建て、世俗から距離を置きながら、
創作活動に勤しんできたヤンソンさんの姿に重なります。
あらゆる情報が世界中を駆け巡り、
利便性ばかりが追求された都市生活の発展とその先にある疲弊、
SNSの浸透によって、誰もがつながることを強制される現代において
真の豊かさとは一体何なのか?
「孤独」は最高の贅沢であるということを知っていたヤンソンさんが、
スナフキンムーミンというキャラクターを通じて発しつづけるメッセージは
とても示唆に富むものばかりです。
いくつかその名言をご紹介します。


◆「大切なのは、自分のしたいことを自分で知ってるってことだよ」


◆「孤独になるには、旅に出るのがいちばんさ」


◆「あんまり誰かを崇拝したら、ほんとの自由は得られないんだぜ。
本当さ。ぼく、知ってんだ」


◆「世の中にはね、自分の思い通りになってくれない相手のほうが多いんだよ。
おべっかばっかり使って友達になろうとするやつも同じくらい多い。
だけどムーミン、僕はそんなやつが大嫌いさ」


◆「”いつもやさしく愛想よく”なんて、やってられないよ。
理由はかんたん。時間がないんだ」


◆「いいひとだけど、ほかのひとのことを、
てんで気にもとめていないような友だちは、ぼくはいらない。
自分で自分がいやにならないようにするために
いいひとでいるような友だちもいらない。
こわがりの友だちもいらない。
けっしてこわがらなくて、思いやり深いひとがいい。」


◆「自由ってのは、独立してるってこと」


◆「秋になると、残るものと旅立つものがいます。
いつだって、そうでした。好き好きでいいのです。
でも、とりかえしがつなかくならないうちに、早めに決心することです。」


◆「ものは、自分のものにしたくなったとたんに、
あらゆる面倒が、ふりかかってくるものさ。運んだり、番をしたり・・・。
ぼくは、どんなものであろうと、見るだけにしている。
立ち去るときには、ぜんぶ、この頭の中に、しまっていくんだ。
重いかばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからねぇ!」


スナフキンの名言集

スナフキンの名言集


ムーミン谷の名言集

ムーミン谷の名言集


スナフキンにまつわるフレーズでは
「孤独」という言葉がキーワードの1つとなっています。
一般的に「孤独」という言葉は、
悲しいイメージだったり、マイナスの意味合いに捉えがちですが
本来の意味はそういうものでは決してありません。
「孤立」と「孤独」は違うのです。
「孤立」とは周りから疎外され村八分にされている状態であり、
「孤独」とは自らの意志で集団や社会から独立している状態であって、
決して1人ということではない。
社会を否定し、社会からも否定されているのではなく、
社会の風潮から常に一定距離を見定めることによって
自立しているという前向きな状態なのです。
そしてその状態というのは、(能力的・環境的に)誰もが到達できる境地ではなく、
むしろ恵まれた状態なのです。
まさにヤンソンさんの生き方やスナフキンの物語における立ち位置がそうですね。


実際、人間というのはいっぺんに賄える人間関係には限界があるのだと思います。
もちろん様々なテクノロジーやメディアによって、身体を拡張(M・マクルーハン)し、
時間的、地理的限界を超えていこうとはします。
しかし1日24時間、身一つでできることなどというのは結局限られているのです。
どれくらいの人間と知り合いでいるかということと、
どれくらい豊かな付き合いができているかということは全く別物なのです。
例えば、スポーツやエンターテインメントの大スターが、
一般の人たちと比べてはるかに多くの人々、それも世界中の人々と接していようと、
たくさんの孤立感や人間不信を抱えるというのはよくある話ですし、
SNSを使って世界中に友達がいるといったって、
その1人1人と本当に深い付き合いができているのかというとそうでもない。
(会ったことすらない、本名さえ知らないということなど普通だろう。
しかしそれを友達と呼べるのか?)
むしろそんなのことに夢中になりすぎて、
自宅の部屋にこもってディスプレイにかじりついているのが
現実(ニート・ひきこもり)だっていう場合もあるだろう。
そもそも何が何でも人とつながるべきだという
強制的かつ盲目的な風潮には嫌気が刺しますし、
そういう風に声を上げている人間ほど、実は人間関係を大切にしていない。
上っ面のつきあいで、楽しければそれでいいというのは絆でも何でもない。
その場限りで盛り上がる分にはいいかもしれないが、
少なくとも長期的に何か一緒にやっていけるわけがない。
むしろ、人ベタで、一定の距離を置いている孤独な人間ほど、
数少ない人との関係性に深く考えているように思います。
自分は楽しさを共有するだけの人付き合いならいりません。
全く知らない赤の他人(おそらくそこで初めて会って二度会わない人)とでも、
ハロウィンの渋谷交差点で、あるいはサッカー中継中のスポーツバーで
その場限りの楽しさを共有するだけならいとも簡単。
そう考えると、むしろ苦しさや悲しみを共有できる間柄こそ
真の付き合いなのだと気づきます。
つまり大事なのは結局、身近な人間、
家族や真の友達といった人達とのつながりであり、
自分が何をしたいか、すべきかをきちんと知っているということだと思います。
その基本に背いてまで世界を無理矢理に広げる必要はないし、
自分のミニマムの世界を充実させることだけでも十分幸せというものは感じられるものです。
もしかしたら、そのことを知っているということ自体が
すでに難しい世の中なのかもしれませんが。