オリジナル人形劇『おいしいのたべよう』
このお正月にまた新たな本気遊びを家族で。
オリジナルの人形劇『おいしいのたべよう』です。
曲も、絵も、構成も、振り付けもすべて、
自分と奥さんと長女で分担してこしらえました。
年末にかけて、いしいしんじさんの人形劇を見たり、
銭湯ペンキ絵師さんの見事な筆さばきを見たり、
『私は真悟』の壮絶スペクタクルに度肝を抜かれたり、
自分も奥さんも娘も、かなり刺激を受け、何かやりたいねという流れに。
だって、せっかく吸収したものをただよかったねえ、
面白かったねなんてつまらない!
インプットしたものを自分たちの中でグルグルガチャンとして、
アウトプットしてみたらどうなるか。
鉄は熱いうちに打てじゃないけれど、
何かやろうよと思い立ったらすぐやらないと、
熱は意外と速く冷めてしまうので。
11月に音楽教室の課題で長女がオリジナルの曲を作るというのがあって、
去年はそれで大阪大会まで行ったのだが、
今回は残念ながら落選。
でも、今回の曲の題材は、
長女が生まれてきた妹のためを思って作った大切な曲。
単に作って終わりじゃなく、
何かずっと残る形にしてあげたいなあと思っていたので、
それを劇という形に仕上げなおして、
やってみたら面白いかもということになりました。
オリジナル曲を劇の構成に合わせてパート分けしたり増やしたりして
3分ほどのものに仕上げます。
それに合わせて必要な絵を考えますが、
持ち手が2人しかいないのであまり増やしすぎると持てなくなるため、
いろいろ意見を出し合って絵の数を絞っていきます。
描く絵が決まったら、早速ペイント。
2人の登場人物は奥さんが担当し、食べ物の絵は長女が。
自分はそれを段ボールや厚紙に貼り合わせて、
持ち手の所は割り箸を使ったり工作。
なかなかみな本気でした。
せっかくなら、誰かに見てもらいたいし、
お正月に一族で集まる時にお披露目しようとなったので、
年の瀬の夜遅くまで我が家はナゾの工作集団と化して
せっせこせっせこと夜なべ。
年賀状作成とのダブルパンチで大変でしたが、
とても充実しておりました。
お正月にはみんなの前で無事に披露できました。
傍から見たら、この家族何やってんの?って感じかもしれませんが、
普通は考えたり、やらないことをやるほうが絶対面白いし、
マジメにアソブ、マジメをアソブというのがモットーなので。
たけしがCMで言っていますが、
「いまだ!バカやろう!」の精神です。
娘には、いい意味でアホになれよととよく言います。
型にはまらず、自由な発想で、
他と違うことを恐れず、大胆にやってみることが大事だよと。
ただ、他と違うということは覚悟がいること。
違うということをただ単に馬鹿にされないため、
そしてやっていることが絵空事ではなく
説得力のあるものにするためには、
しっかりとマジメであること、
そして遊びでも真剣でやることです。
そういうことを言葉で伝えるのも大切ですが、
それを実践として教えるというのはもっと大切だと思うので、
今回のような機会をどんどん作っていきたいなあと思います。
正直、しょーもない遊びかもしれませんが、
それを一生懸命やることによって、
自分が考えたことが歌になり、劇になり、
それが少なからず誰かの心を動かすとしたら、
それってとても素敵なことだと思います。
何より、自分の発想が形になる、
それだけでも嬉しいことです。
そういう喜びや、感動をいっぱい感じてほしいし、
その裏側には苦労だったり努力だったりも
一緒についてくるということも、
学んでくれたらなあと思いますし、
自分で考え、自分で行動する人間になってほしいです。
もう少しマジメな話をすれば、
「遊び」とは創造と発想の源なのです。
例えば、京都まで遊びに行くとして、
普通の人は車や電車を利用していくと思います。
効率や採算を考えれば当然のチョイスですが、
それは当たり前すぎて面白くもなければ、
そこに何も生まれません。
それを、普通では考えないようなこと、
例えば、チャリンコで行ってみようとか、歩いて行ってみよう、となると、
そこに「面白さ」とか「意外性」とか、”創造のタネ”が芽生えます。
社会的、経済的なものの考え方だと、
チャリで京都へ行くなんて、しんどいだけで時間の無駄かもしれません。
でも、その一見無駄なこと、馬鹿をやることで、
新しいものの見方や、予想外の感動、
あるいは創意工夫をするきっかけを生み出すのです。
決められたことを決められたようにやる仕事をこなすだけでは、
創造の幅を広めることはできません。
日常に張り巡らされた常識や固定観念の枠の中でだけで
物事を判断していては、新しい発想は生まれません。
一番よくないのは、ゲームでもなんでもそうですが、
何か与えられたおもちゃを「消費」すること。
それはただの暇つぶしでしかありません。
それであれば、自らおもちゃや遊びを作り出すことを
遊びにしてしまえばよいのです。
遊び方を知っているかそうでないかは、
イコール人間的な豊かさの度合いだと、
自分は信じています。
(もちろんまじめで勤勉であるということは大前提ですが)
仕事はできても、本気で遊べない人間はつまらない。
遊ぶことは創造すること、発想すること、
つまり自主的に考えることです。
そして人間は考える葦なのですから。
少なくとも自分は、
人の顔色ばかりうかがって自ら発信しない人、
他力本願の人、ただ流れに身を任せて浮いている人にはなりたくない。
そういう人ほど、人生はつまらないとか、
世の中が面白くないとかうそぶきます。
でも、人生が面白いかどうかは、自分次第!
余談ですが、もし遊びの社会学に興味がある方は是非、
ロジェ・カイヲワの『遊びと人間』や
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』といった文献を読んでみてください。
遊びとはなかなか、あなどれないものなのです。