記憶の残滓 by arkibito

「マジメにアソブ、マジメをアソブ」をモットーに、野山を駆け、コトバを紡ぎ、歌う。

坂口恭平×マヒトゥ・ザ・ピーポートークショー&サイン会 at 梅田蔦屋

<はじめに>

年末のはなしです。

なかなかどう捉え、言葉にしてよいか考えあぐね、

書けなくて、今頃になってようやくの記事です。

 

坂口恭平さんの新刊『まとまらない話』と

マヒトゥザピーポーの初小説『銀河で一番静かな革命』の

出版記念トークショー

 

あまりに鮮烈なイメージのやり取りと

濃密な情報の応酬に、それらを咀嚼し消化して、

自分の言葉に起こし直してアウトプットするということが

かなりの至難の業で難航しているうち(他で多忙だったこともあるけど)、

こんなに時間が経ってしまい、

そのうちに、その時の取材記事がすでにリリースされていたので、

詳しく知りたい方はぜひぜひそちらへ飛んでください。

この不穏で息苦しい時代に、

究極で言えば死なずに生きるためのヒントが

盛りだくさんあり、しょーもない自己啓発本なんか読むより、

よっぽど腑に落ちます。

 

finders.me

 

<序: トークショー直後に書き留めた生の自分の言葉>

坂口恭平×マヒトゥ・ザ・ピーポートークショーat梅田蔦屋。

2019の最後の最後にずっと探し続けてた問いの正体がやっと現れた。

この瞬間こそがまさに

言語では意味として回収されない風景そのものだった。

ものすごいものを目撃した。

この休みずっと頭の中で輪廻することになる。

 

手がかりにと繰り出される言葉たちを

できるだけたくさん書き留めた。

でも多分そんなの全然役には立たない。

考えうる限りの想像力を総動員して、

言葉の向こう側に意を決してダイブしないといけない。

彼らは飛んだ。ならば飛ぶ。

眼とは反対側にぽっかり開いたランドスケープを目撃するために。

 

とにかくものすごく興奮している。

こんな風景があるのかと。

それが彼らのフィールドかと。

発せられる声が言葉の意味を超えて走馬灯のように駆け巡る。

現代日本にもドゥールズやゴダールが存在したのかと。

これはもうほとんど未来じゃないか。

 

あまりに高解像度のイメージの応酬に、

正直脳みそが今バチバチとショートして焼け焦げそうになってる。

でもそれは今までとは違う思考回路を

新たに生み出してくれるかもしれない。

少なくともそれは苦しみではなく快感を伴ってる。

なら試してみる価値はあるんじゃないか。

 

これだけは間違いない。

彼らが放ったイメージの放物線は

我々の遥か上空を光のスピードで

果てしない創造の宇宙めがけて突き進んでいる。

しかもそれはこの大地に歯を食いしばって根ざす

ペンペン草のために光の粒となって等しく降り注がれるのだ。

 

お二人に似顔絵をお渡しした。

今自分が想像力を一番発揮できるのは相手の顔を描くこと。

ひとつひとつの顔と対峙して、

彼らが刻みつけた皺や陰影を読み、

その人を浮かび上がらせること。

その行為が、伝達手段ではない言語たりえば。

今はそれをきっかけに想像力の羽としたい。 

 

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<本題>

さて、トークショーです。

言わずと知れたGEZANのマヒト君が、

我が町でトークショーをすると言うので、

リリース後、即申し込みをしたのですが、

そのお相手がなんと坂口恭平さん。

建築家でもあり、作家でもあり、ギター弾きでもあり、

もはや”人間”といったほうがしっくりくる人で、

(そもそも肩書なんて必要ないけど)

躁鬱病を公表後は、自分の携帯番号を公表して、

死にたくなった人たちがいつでも自由にかけて相談に乗ることができる

「いのっちの電話」なる活動をされ、

毎日10件の死にたい人との真剣トークを繰り広げているという、

本当にとんでもすごい人。

2人とも、現代的な商業的価値観とは一線を置きながら、

独自のやり方を貫いて注目を浴びている。

彼らもまた紛れもなく、

自分がよく言う”ほんとう”の言葉をもった優しい人たち。

もうこの2つの魂がざっくばらんに語らうのを

目の前で目撃するという事だけでも、

これはすごい夜になると確信していました。

(そんな予感すら軽々と越えていったけれど)

 

正確なトークのやり取りは、

リンクを張ったサイトへ飛んでもらうとして 、

自分が刺さった部分について、

会話の時系列的なものを省いて、

書き留めておきたい。

そしてそこから得た自分なりの(自分だけの)解釈も。

なのでここからは正直支離滅裂だし、

自分でも意味不明なイメージや願望が

言葉として散らかっているだけしか書けないのだが、

そこは言葉の意味を越えたものとして各々感じるべし、

ということで。

 

↓phは竹村さんtwitterより拝借

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トーク内容> 

まずは坂口さんは、いつも色んな人の心配をしていて、

それこそ「いのっちの電話」でも、

沢山の人たちの心配をして、常にモニタリングしているのだけど、

そのうちの一人がマヒト君でありGEZANの面々。

彼らの活動や発言を常に支持しながらも、

彼らのように自分だけじゃないものを背負ってる人間は

本来、表舞台の最前線に立ち続けるのではなく、

バックヤードに回って、

ムーブメントを支えるべき立場なのだけど、

自分たちが出て自分たちでやらないといけない状況にある。

自ら自らを担ぎ出してやるのは相当にしんどいことで、

追い込まれないかどうかそれを心配してるんだ!!

いつ俺のところに来るかそれだけを心配してるんだ!!

と、いきなり初回から直球勝負でマヒト君に投げる。

 

そうやって管制塔みたいな役割をずっとやって、

そこで色んな人のいろんな考えや経験や景色をもらってる。

「いのっちの電話」は一日だいたい12.3件はかかってきて、

それらに1つ1つちゃんと答えるから1件30分はかかる。

それを毎日毎日やっている。

それについて、お金とればという人もいるけど、

むしろいろんなもの、

それこそ命にかかわるような大切なものを

タダで話聞けてるのだから、逆に申し訳ないんだ。

ヒッチコックの鳥みたいなもんで、

ノーギャラで映画出させて名作作ってるみたいなもんで

と、独特のたとえ話。

「いのっちの電話」を労働とか、対価とか

消費的視点に縛られるのではなく、

貴重な人間的実践の場と捉えているのが、まずすごい。

 

そしてこの仕組みは、電話というツールだからこそ生きる、

声を通じてだからこそ届く、伝わる類のもので

まさに天の声、鶴の声であると。

文字に起こされた情報と比べて、

確かな温度を持った言葉の大切さを痛感する。

例えば、ツイッターという機構には、

もともとマス的な仕掛けが仕込まれていて、

一対一の対話に向いてない。

逆にマスメディアでありながらも、

ラジオはプライベートな要素を持ち合わせている。

それはまさに、人間の声が持つ情緒で、

声だからこそ発せられるもの=どこにも行き場のない声を

つぶさに拾い上げていくことこそ、

自分の役割だと感じておられる。

 

そういう死にたい人の声を毎日聞いていると、

死にたいと思っていることはつまり生きたいという事だから

大丈夫だと気づく。

生きるために死にたい、言い回しの問題になる。

今ここで死にたいという正直さよりも、実は、

死にたくないという方がはるかにやばい。

芸術の類はそういう声=ほんとうの声を引き出すために役立つ。

そして今死にたいと思っているのは個人個人ではなくて

実は日本という共同体自体がもはや自殺したいことになっている。

そういう声が誰も届くことなく、ずっとあてどなく、

さ迷っている状態が東日本震災以後ずっと続いている。

誰にも届かない声が繋がってこの地にこだましている。

 

そうやって、自分が放ったものがどう波紋を起こすかを

逐一モニタリングする視点をもつ坂口さんに対して、

マヒト君は自らが放つ瞬間の手ごたえを

次へ行く糧にして進むタイプで

自分は波紋を見ないとのこと。

なぜなら、表現として輝いていても、

聴く飛べない人間のことを考えると寂しさを感じるし、

飛び抜けちゃうとスッと消えてしまう経験があり手ごたえがないから。

それは東京という大都会で

常にストレンジャーという存在であり続ける方が

自分の存在としてしっくり来るという

マヒト君の偽らざる心象でもあり、

ノイズの場所にだけあるべき音楽を作ってきた

GEZANのスタイルに繋がっていると思う。

 

それに対して、だからこそ、

坂口さんはマヒト君にリクエストする。

解像度を下げて、濃度を落としたような文章で、

免責しないと分からないような人に向かって

冷静に書くのではなく、

最初から飛べる人、

インハイの難しいコースを狙って投げるのを

狙って返せる人に向かってあえて書いてほしいと。

なぜなら、言語が伝達のために使われているけど、

一歩間違えると命令になる。

ならばどうすればよいか。

伝達のために言語を使わずに、言葉を見せる、届けるのが課題だと

坂口さんは感じていて、

伝達じゃない意味を壊すのが詩であり、

”意味”じゃなくて”風景”を見る/見せることこそが

もっと大事だから。

マヒト君の小説では、現代の東京周辺の風景を、

高解像度でしっかり描写してるが、下手すると説明になってしまう。

だけれども、室外機のモヤモヤとしたシーンででそれが崩れた。

その説明や理屈を越えてしまったイメージの部分こそが

核心じゃないか、と坂口さんは感じていて、

その先を書きたいと俺は思わされたと訴える。

そうやって喚起されるものが大切なんだと。

 

”意味”ではない”風景”とは一体なんぞや。 

それはナイロビのシャーマンが呼んでいる”ランドスケープ”なるもの。

つまり、我々の眼は外を見るためについているが

内側に向けても目が開いているはずで

そっちから見える風景、つまり インサイドアイ。

そこには意味がなく ただの風景なんだと。

(ただしハルキ的な精神分析とは違うようにするのがルール)

 

その風景を見る/見せるためにはどうしたらよいのか。

ジャンルやカテゴリーを頼るのではなく、

そういった枠を解体して、ひとりぼっちになる。

孤独になるための方法を模索する。

孤独とは、想像しようと思う極めて密度の高い状態で、

それは素晴らしいものだ。

意味や体裁に丸め込まれて行くがそれが本当に心地よいか、幸せか?

それよりなんの琴線に触れたか、

言葉にできないものを掴み取る、

回収できないものを一度言語から離れて方法を見つける作業が大切だ。

つまりは想像力。

 

一方で、一周したら二周目が始まる。

どうやって、食ってくのかという労働者の目線は常に必要不可欠で、

暮らしと哲学は本来切っても切り離すことはできない。

どちらかが掛けていても健康ではいられない。

それらをうまく繋ぐ潤滑油が芸術?音楽? 

  

そしてドゥルーズゴダールに当てた評を

ほぼほぼそのまま転用する形で

坂口さんがマヒト君に送った言葉が秀逸だった。

(それは長いのでここでは割愛)

そしてあのゴダールだって、難解だ商業的でないと、

文句タラタラ言われながらも

結局死なずに今もってずっと現役でやっている。

要は死なずに生きるべし!!懲りずに続けるべし!!

 

 

↓phは竹村さんtwitterより拝借

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トークはどこまでもどこまでも深く潜って行って、

終わりが全然見えないくらい熱を帯びて、

気が付けば、あっという間の時間が過ぎて、

そろそろおしまいとなったのだけど、

せっかくだからと、1曲ずつ弾き語りを披露してくれるという

とびっきりのプレゼントがあった。

坂口さんは『飛行機』、マヒト君は『失敗の歴史』。

どちらも本当に優しくて沁みた~。

 

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とにもかくにも、

ものすごい色彩にあふれた

言葉の走馬灯のような濃密なトークショーでした。

これらの言葉を、博物品のように記憶のケースに納めて

ただ愛でていても言葉が生きないわけで、

この日確かな熱量をもって発せられた言葉たちを

丁寧に分解しては1つ1つ考えて、

もっかパズルを組み立てるようにして

自分の人生や暮らしに落とし込んでいかなければ。

そしてまた、彼らに出会いたい。いつでも。

 

 

 

 

 

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